「遷都信濃国 vol.16」

天武天皇が信州信濃をナゼ遷都先の候補にしたのか、現地へ調べに行きました。
遷都先に名前が挙がっているのは浅間温泉と美ヶ原温泉でして、いずれにしても松本市の中心(松本城あたり)から直線で3㎞程度の距離にあります。
浅間温泉の文化センターで地元の古代史研究家を紹介していただきましたが、天武による信濃遷都の真相はなかなか見えてこず、何度か現地を訪ねてみないことには答えが見つからないかもしれません。
しかしヒントになることもあり、それが「馬(駒)」です。

927年に編修された延喜式によりますと、天皇直轄の牧(まき=馬城。馬や牛を放し飼いにする土地。牧場)が全国には32箇所あり、うち16箇所は信濃国にあったようなんです。
延喜式以前の記録としては、668年に天智天皇が全国に牧を置くよう命じたことが日本書紀に記されていると、松本市立考古博物館で聞きました。

668年といえば壬申の乱の4年前。
そして壬申の乱で天武(当時は大海人)は信濃の兵に助けられています。
そんなわけで天武の遷都信濃国と馬(駒)が結びつくかもしれません。関係ないかもしれませんけど。

信濃の国には天武の遷都についてよりも面白い古代史がわんさかありまして、塩尻の平出(ひらいで)遺跡には縄文時代から平安時代までの5千年におよぶ村が再現されています。
住居も「縄文の村」「古墳時代の村」「平安時代の村」が分けて再現されているため、それぞれの時代の住居が楽しめます。
それにしても5千年間続いた村を想ってその地に立っていると、感慨深いものがあります。
神武(崇神)だのスサノヲだのってわりと最近じゃんか。天智とか天武なんてつい先日のことのようだ。

笑えるのが平出遺跡近くの塩尻市立平出博物館と松本市立考古博物館です。マジで笑えますから。
考古学の博物館でゲラゲラと腹をかかえて笑ったのは初めての体験でした。
何が笑えるって、縄文土器に笑えます。
縄文土器ってもっと希少で貴重なモノだと思ってました。ガラスケースの中に飾られていて、絶対に触らせてもらえないのが縄文土器なんだと。
ところがこの二箇所、あるわあるわ、ナマで大量に縄文土器が置かれていて、ガラスケースなどありません。
もう、触り放題の盗り放題………ではありませんのでそれは絶対にいけませんが、学芸員に言ってやりました。
「これだけ大量にあると1つ2つ持っていかれても、どうってことないでしょう」って。
それはともかく、縄文土器のデザインセンスや遊び心には感動すら覚えますし、生活の”ゆとり”を感じました。

松本市の弘法山古墳は全長こそ66メートルしかありませんが、3世紀末の前方後方墳です。前方後円墳ではなく、前方後方墳です。
つまり大きさが異なる四角が2つくっついた古墳で、時代としては古く数も少ないため、前方後円墳ほど世間では知られていませんが、好きです、前方後方墳。
しかもこの弘法山古墳が造られたのは3世紀末、2百年代後半ということですので、この古墳に眠る王はヒミコと同時代を生きた人かもしれません。
高松塚古墳やキトラ古墳より400年も古いんですよ。
古代に栄えたのは大和や北部九州だけじゃないってことですね。
むしろ大和よりも古いかもしれないです、信濃王国。
大和が大和国として整うのはその200年後ぐらいでしょうから。

5月に金丸号で行く出雲では出雲弥生の森博物館を訪れる予定です。
弥生の森博物館には四隅突出型古墳が復元されていまして、これは方墳(四角い古墳)の四隅がビヨーンと突出しており、その様子がカモノハシのくちばしみたいなので、個人的にはカモノハシ古墳と呼んでいます。
けど古墳の話はもういいや。

天武天皇や壬申の乱について書かれた本はたくさん出版されていますが、最近流行り?の別冊宝島シリーズ「天智と天武 兄弟天皇の謎」は読みやすく判りやすいです。
後半には天武天皇の漢皇子(あやのおうじ)説や古人皇子説なども紹介されているため興味がある人にはお薦めです。

写真は松本市立考古博物館の縄文土器、出雲弥生の森博物館の四隅突出型古墳、別冊宝島シリーズ「天智と天武」

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