「蘇った”瑞鳳”の輝き」

磨いたら輝きが復活しました。
「古墳にコーフン協会」名古屋支部の会長は、そのままの風合いでいいんじゃないのっておっしゃってましたが、弥生時代当時の輝きに戻したかったので、何度も何度も磨き続けること3時間。少しずつキラキラと輝き始め、おぉ綺麗きれい。ずいぶんと輝いてきました。

今から約二千年前の製法は、まず外側の型をA面とB面に分けて作り、銅鐸表面の図柄を型の内側に刻みます。
A面とB面の型をぴったり合わせれば外側の型は完成で、次は内側の型を作るんですが、内側の型と外側の型とのすき間は狭いところだど2ミリ程度。
銅鐸の中にはもっとも薄い部分がたったの0.5ミリしかない物もあります。0.5ミリって………シャープの芯かっ!

そのすき間に溶かした青銅を流し込んで…………当時はどうやって青銅が溶けるまでの温度を作り出したのか、それさえはっきりと判っていません。
仮に青銅がドロドロに溶けたとしても2ミリのすき間にですよ、どこにもつっかえず外側と内側のすき間全体に青銅を流し込んで、合わせたA面とB面の型からは漏れ出ないようにするのは至難の業。
よくもまぁ二千年も前にそんなスゴ業を編み出してしていたもんだと御見逸れいたしました。スゴいです、弥生人。

銅鐸には胴体にいくつか穴が開いてますでしょ。
あれは外側の型と内側の型がくっつかないように、”型持ち”と呼ばれるストッパーがはめ込まれていた部分なんです。
型持ちがないと外側と内側の型同士がくっついて、青銅が流れないですから。
それにしても、溶けているとはいえ金属ですので、0.5ミリのすき間にそれが流れるもんなんでしょうか。

瑞鳳のモデルは加茂岩倉35号銅鐸ですが、ちょうどこのころで”聞く銅鐸(鳴らす銅鐸)”の時代は終わりました。
それは出雲の銅鐸文化の終焉を意味していまして、その後に近畿・東海で作られた近畿式や三遠式の大型銅鐸は、祭祀用の”見る銅鐸(祀る銅鐸)”なので、鳴らすことはなかったと考えられています。
それに、見る銅鐸は重すぎて木の枝に吊るしたりできやしません。
滋賀県の大岩山から出土した135㎝銅鐸なんて、重量が45.5㎏もあるんですから。
ちなみに135㎝銅鐸は今のところ日本一の大きさなんですが、827号(「我が家に銅鐸がやってきた」に登場)同様にやはり東京国立博物館で826号銅鐸として都会暮らしを強要されていますので、お盆や正月にも故郷へ帰ることはできません。

出雲の場合、銅鐸文化の終焉と同時に出現したのが四隅突出型古墳(正確には”四隅突出型墳丘墓”と呼びまして、古墳時代よりも早い時期に造られたため、”古墳”とは呼ばないんですが古墳と変わりありません)です。
四隅突出型は山陰から北陸の日本海側にそのほとんどが集中しているため、古代の勢力図や交易の様子を知ることができます。
しかしそのころ出雲地方では銅鐸文化が終わり、人々は銅鐸を地中に葬りました。

それから約二千年後の1996年10月14日、農道を建設するための工事中に突如として土の中から銅鐸が現れ、それが今の加茂岩倉遺跡です。
瑞鳳は加茂岩倉から出土した35号銅鐸のレプリカで、実はある博物館へ納入されるはずのだったんですが、なぜか今は我が家に来てくれたので、感謝を込めてさらに輝きを復活させようと思っています。

写真1と写真2:輝きを取り戻した瑞鳳のビフォァー&アフター。
写真3:我が家の銅鐸ファミリーとその仲間たち。

2015/ 7/22 23:102015/ 7/24 13:422015/ 7/24 13:51