「遷都信濃国 vol.28」

最近は日本各地で鹿が増えすぎてしまい、さまざまな被害が出ています。
かといって増えた鹿の命をただ奪うだけでは申し訳ないですし、鹿の肉には鉄分が豊富に含まれているため、丹波から新鮮な鹿肉を送っていただきました。
それで、鹿肉を食する前に諏訪大社へ行き「鹿食之免(かじきのめん)」と「鹿食箸(かじきばし)」を買い求めてきたわけです。
「鹿食之免」とは鹿肉を食するための免罪符でして、これで鹿肉をいただく許可を得たことになる………といったシロモノなんです。

鎌倉時代、幕府は仏教の教えにより「獣を食べてはならない」との御触れを出しました。
しかし諏訪の地は特別にそれが許されていて、諏訪大社は「鹿食之免」を配布するだけでなく、販売して利益を得ていたんです。
どうして幕府は諏訪大社だけにそのような許可を与えたのでしょう?

鎌倉時代、諏訪の地は仏教思想の影響をあまり受けていなかったことも理由のひとつでしょう。
それにしても面白い話でして、「鹿食之免」と「鹿食箸」を手に入れた者は”諏訪の神様から許可を得たので鹿など獣の肉を食べても罰はあたらない”というのであれば、諏訪の神様は仏教の仏様や幕府よりも上位に置かれていたことになります。
諏訪大社ではナゼそのような商売が幕府から認めていたのか?
そのあたりを神長官守矢史料館や諏訪大社で聞きましたが、納得できる答えは得られませんでした。
けど、何となぁく読めてくるものがありまして、天武天皇が陪都先に信濃を選んだ理由とも大いに関係がありそうです。
※写真は現在でも諏訪大社で販売されている「鹿食之免」と「鹿食箸」。セットで1000円。

日本書紀が完成(720年5月)して、不比等が没した(720年8月)その翌年の721年、天武天皇死去後35年経っての話なんですが、大和朝廷はどういう訳だか信濃国の中の諏訪地域を独立させて諏訪国を建置しました。
そしてわずか10年後の731年に諏訪国は廃されて、信濃国に戻されているんです。
何がしたいねん、大和朝廷。

そのことについては諸説ありまして、これはやや諏訪びいきの説なんですが
「それまでも信濃国の実態は諏訪であった。その諏訪であった事実を大和が正式に認知したのが”諏訪国を置く”ことだったのである」
(増澤光男著「まぼろしの諏訪王朝」あーる企画)
だとすると、時代を遡って天武天皇の陪都信濃国も一端が垣間見えてくるわけです。

同著にはこんなことも書かれてまして、
「天武天皇も諏訪祭祀にならおうとする意図があった。壬申の乱に勝利すると天武は三輪山と対角をなす都の北西に風神として竜田神社をまつった。天武4年(675年)のことである。………(途中略)………諏訪神は開拓神、農耕神、軍神などさまざまにいわれるが、つまるところは風神である」
とのことです。

また、
「……やはり三輪山に替えて諏訪を新たな体系に組み込もうとする天武の戦略とみることができるのである」
とも書かれてまして、ということは天武天皇の権力をもってしても、人々の三輪山への篤き信仰心は変わらなかった。
それで天武天皇は、三輪山信仰から人々の意識を逸らせるため、諏訪の力を取り込もうとしたのかもしれません。
それでひとまずは、諏訪から少し離れた現在の松本市浅間温泉(美ヶ原温泉との説もあり、どちらとも言い切れません)に行宮(かりみや)を置こうとしたのでしょうか?
浅間温泉や美ヶ原温泉のあたりはタケミナカタに諏訪を追い出されたススキ氏の拠点でもあり、須々岐水(すすきがわ)神社もすぐ近くに鎮座しています。

諏訪の上社は諏訪氏や守矢氏の本拠地で、諏訪明神タケミナカタやミシャグチ神が人々から篤く敬われています。そして彼らは反朝廷の立場でした。
一方、諏訪でも松本市寄りに位置する下社は親朝廷の金刺氏が支配する地域です。
天武天皇にとっては反タケミナカタのススキ氏や親朝廷の金刺氏が支配する土地の中に身を置くことで、上社の諏訪氏・守矢氏の様子を伺いたかった…………のかもしれません。

ひょっとして天武天皇に信濃国の情報を与えたのは、死んだとされながら長野の皆神山へ逃げていた(かもしれない)古人大兄皇子だったりして。
そういえば古人大兄皇子と大海人皇子(のちの天武天皇)はどちらも、天智天皇から逃れるために吉野へ身を隠しています。
ただし、古人大兄皇子にしても大海人皇子にしても、出家して吉野へ向かったという話が本当ならばのことですけども。多分作り話でしょう。

とにかく須々岐水神社の宮司さんにススキ氏のことを聞いてから、またいろいろ考えます。

2015/ 8/13 17:23

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2015/ 8/13 17:24

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