「遷都信濃国 vol.29」

最近は本題から話が逸れすぎていましたので、いまいちど天武天皇による陪都信濃国関連の資料を整理してみます。
まず、天武天皇が陪都に先だって行宮を置いたとされるのは「つかまの湯」と呼ばれていまして、日本書紀には「束間温湯」として出てきます。
日本書紀によれば、天武天皇14年(685年)10月に
・軽部朝臣足瀬(かるべのあそんたるせ)
・高田首新家(たかだのおびとにいのみ)
・荒田尾連麻呂(あらたおのむらじまろ)
ら3人を派遣して束間温湯に行宮を造営させたとのことですが、翌年の天武天皇崩御によって信濃国の陪都建設計画は中止になりました。
陪都を設けることは唐に倣ったようで、唐では長安を首都としつつ洛陽を陪都にした複都制を実施しています。

飛鳥浄御原宮で即位した天武天皇ですが、理想は建設中の藤原京を首都にして、陪都のひとつとしての難波京はすでに建設地も決定していました。
そしてふたつめの陪都に信濃国が選ばれたのですが、まずは行宮をつかまの湯に造営しました。
つかまの湯がどこであったかはこれまでの研究によると、松本市の浅間温泉か松本市里山辺の美ヶ原温泉であろうとのことですが、近年は浅間温泉に比定するのが通説になっています。

ただし、松本市並柳の弘法山古墳(全長66メートルの前方後方墳………前方後円墳ではなく、前も後ろも四角い前方後方墳)の出土品を調べた結果、美ヶ原温泉がつかまの湯であるとも推測されるため、美ヶ原温泉観光協会は「つかまの湯伝承の地」なる碑を建てています。
そこには「つかまの湯由来記」も刻まれていまして、今のところは断定はできませんが、浅間温泉と美ヶ原温泉は直線だとわずか2㎞の距離なので、いずれにしてもその地域に行宮が造営されたのでしょう。
どっちが本当なのかを浅間温泉で聞けばつかまの湯は浅間温泉になり、美ヶ原温泉で聞けば美ヶ原温泉がつかまの湯になるので、まるで邪馬台国論争みたいだ。

さて、日本書記の編纂者は
「けだし束間温湯に幸さむとおもほすか」
と推測していることから行宮の所在地は束間郡であり、松本市史には東筑摩(つかま)の温泉地をいくつか候補地として挙げていますが、市史にはこのようなことも記されています。
「天武天皇の束間行宮造営の意図が何であったかは、すでに八世紀の史官にも不明であった」と。
やっぱりそうですか。

また、陪都先に信濃国が選ばれた理由としていくつかの考えが示されていますが、その程度の理由で陪都を置くとは納得できませんし、この辺りの温泉は特に著名でもありません。
信濃よりも東には温泉の数が日本一の群馬がありますし、信濃の手前にも大きな温泉地はいくつもあります。

陪都の理由として、信濃の馬が目的であることは否定できませんが、それでも最大の要因ではなさそうで、結論として松本市史に記されている
「その造営意図は案外、天武天皇の個人的な動機によるのかもしれない」
「天武天皇は道教に傾倒し、神仙と合して不老長寿の仙丹を得んとする欲求は、晩年になるにつれてかたまっていったという」
といった意見が正しいのかもしれないです。

天武天皇お得意の天文遁甲(てんもんとんこう)による占いが指し示したのは信濃方面。
壬申の乱で天武天皇を助けてくれた信濃の兵たちからは、信濃国には気高き雪山を望む神聖なる地があると聞いていたであろうし、しかもそこは優れた馬の産地であることも占いの結果をさらに正当化させた。それで遣いを信濃に派遣したのではないでしょうか。

今のところこれ以上はナゼ信濃が陪都先かが探れないことと、行宮の候補である浅間温泉には御射(みしゃ)神社春宮があり、山の向こうには御射神社秋宮が、そして三才山(みしゃやま)なる山まであって、えー何で?
これって諏訪じゃんか。

というわけで、「遷都信濃国」の発展がしばらくは見込めないため、並行して新しいコーナーを始めることにいたします。
内容は「遷都信濃国」と重なる部分がたくさんありますがやむを得ません。
タイトルは「諏訪古事記」。