「諏訪古事記 その3」

諏訪市博物館は、諏訪大社本宮入口の道路をはさんだ反対側にあります。
女性館長の専門分野は中世とのことでしたが、そんなことはかまわず古代についてあれこれ質問攻撃をしてみました。
すると館長は興味深い話をしてくださったんです。
「江戸時代の後期、各地の神社に祀られる神々に対して古事記に出てくる神々を当てはめ、次々と名前を書き換えたようです。これは信州大学の教授の説ですけれども」と。

それは信州大学人文学部の渡辺匡一准教授の説でして、その「諏訪大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)と建御名方」と題されたレポートが手元にあることをに先ほど気付いて、あービックリした。

渡辺教授のレポートから抜粋いたしますと、
「…………このように14世紀の『諏訪大明神絵詞』の成立以降に、諏訪の祭神は建御名方神とされた可能性が高い。ではその後、この縁起は諏訪に定着したのかと言うと資料から見ると必ずしもそうでない」
とのことです。
つまり、諏訪の神の代表が大昔から現代に至るまでタケミナカタであったというのは疑わしく、古くから諏訪で信仰されていた神とタケミナカタは別物だと。
はい、もっともなことだと思います。

また、こんなこともレポートには書かれています。
「江戸後期に『古事記』を重用した国学者の意見で、各地で土地の神々の祭神名が『古事記』に合わせる形で簡単に書き換えられていったことを考えると、そうすることができなかった諏訪神社のあり方は異例であったと思われる」
「江戸時代の終わりまでは『諏訪大明神が建御名方神である』との考え方は確定していなかったのではないかと思われる」
「最終的に諏訪大明神の神名が定着するのは、資料から考える限りは明治以降である」
「各神社の神の名も『古事記』に沿って変えられており、諏訪神社についてもこの時期に『諏訪大明神は建御名方神である』と公式に定められたと考えられる」
等々。

このレポートで個人的に救われたことがありまして、それは
「諏訪大明神=建御名方神」ではない!
ということで、この意見は久しぶりに諏訪解明取材で大きな希望となりました。
あんまり嬉しかったので諏訪大社本宮前の食堂へ蕎麦をたべに行ったら、予想以上に美味しかったです。

ですが「諏訪大明神=建御名方神」が定着したのは明治以降となると別の疑問がわいてきます。
それは、武田信玄がイクサの際に掲げた
「南無諏方南宮法性上下大明神」
の御旗(“諏方”は”諏訪”のこと)は明治よりもずーっと以前であり、諏訪の神=諏訪大明神は平安時代の末ごろから”武神”として信仰されるようになっているため、決して諏訪大明神の名前は明治以降に定着したわけではないのではないかとも思うわけです。
薩摩藩もイクサの神を諏訪から勧請していることを考えると、当時から諏訪の神は武神として認められていたわけでして、少なくとも古事記に書かれた”負け犬タケミナカタ”は諏訪大明神と結びついていなかったはずです。
でなければ薩摩藩がイクサのための守護神を選ぶのに、イクサに破れた(ことになっている)タケミナカタを勧請するはずがありませんから。

ではナゼ諏訪大明神が武神として信仰されるようになったかと申しますと、坂上田村麻呂の蝦夷征伐にも関係してきます。
しかし、田村麻呂はアテルイやモレと和睦したかったであろうから話がややこしくなってしまい、諏訪大明神=武神についてはいずれ別の機会にいたします。忘れてなければ。