「諏訪古事記 番外編その7」

ハチの散歩をしている途中で道路脇の工事現場に何気なく視線を向けた瞬間、いきなり心臓がドキッとして、何だかものすごい幸せ感につつまれました。
えっ、何?
それであわてて理由を探したらすぐに判明しました。これか。
そこには建て替え用の長い電柱が4本並んで置いてあったんです。諏訪のオンバシラ置き場とダブったのでしょう。
オンバシラ病はかなり進行しているようです。

諏訪湖から流れ出る天竜川は浜松まで南下して太平洋にそそぎます。
諏訪への文化の流入は現代人の考えで地図を見ると、どうしても尾張や美濃を通り………現在の名古屋界隈から岐阜県の多治見や中津川を抜け、木曽川沿い(中山道)を北上して諏訪入りしたように思えてしまいますが、当時の移動は船が主流ですので天竜川沿いを北上して諏訪に向かったのでしょう。

子供のころ、三河(愛知県東部)や遠江(とおとうみ:静岡県西部)には牛川原人とか三ヶ日原人がいたと教えられましたが、現在では浜松市北部で出土した浜北人(浜北原人とは呼ばないそうです)がもっとも古いとされています。
炭素年代測定によると1万8千年前と1万4千年前の人骨らしく、旧石器時代に生きた人です。
あと、ナゼかトラらしき頭骨なども出土していて、かつては日本列島にもトラの仲間がいた証拠ですので、もし彼らが滅びてなければ今でも日本にトラとかヒョウがいることになります。うひょう、そうなんだ。

旧石器時代の人骨が見つかっているのでこの地には大昔から人が暮らしていたわけですが、浜松では弥生時代の銅鐸も20個以上出土していまして、銅鐸が出てきた箇所が日本で一番多い地域でもあります。
しかも三遠(三河と遠江のこと)式とサザエさん型の近畿式の両方が見つかってますが、銅鐸と諏訪は残念ながらあまり縁がありません。
諏訪の地が銅鐸文化の流入を拒否していたのでしょうか。

弥生時代が終わり古墳時代に入っても諏訪は朝廷にとって「まつろわぬ者どもの地」ですので、前方後円墳は青塚古墳の1基だけ。
それも下社(春宮・秋宮)地区にあり、特に朝廷への反発が強かった上社(前宮・本宮)地区にはまったくありません。
これ、非常に面白いです。

さて、浜松市の資料館には江戸時代の地図が展示してありまして、天竜川の流れが現在とはずいぶん違っていたことが判ります。
これは明治維新前後に天竜川の流れを浜松市の手前で大きく東へ迂回させることで、浜松に大きく平坦な地を確保したそうなんです。
ですから現在の天竜川はその箇所に急カーブがあり、2011年8月に遊覧船の転覆事故が起きています。
ちょうど浜松で小嶋さちほさんとのイベントがあったため、現場へ慰霊に訪れました。

それで、流れを変える前の天竜川の河口は今よりも西側で、浜名湖と隣接していたかもしれず、船でこのあたりまでたどり着いた人々は、太平洋からすんなり上流域へむけて遡上できたのでしょう。
それにしても浜松・浜北・三ヶ日あたりも調べ始めると面白いですし、すぐ西隣の愛知県三河地区へは晩年の持統天皇が1ヶ月ほどかけて行幸したとか、息子の草壁皇子を三河に派遣したとか、孫の軽皇子を3年間常駐させたとか、興味深い話があります。
しかし近ごろ、持統天皇は即位してなかったであろうとの考えが強くなってきていて、だったら天皇は誰だったんだ?
はい、おそらく高市(たけち)皇子が即位していたのでしょう。
あるいは高市を持統と呼んでいたのかもしれず、だとしたら持統は高市のことになるんですが、諏訪とは離れすぎるのでその話はまた別の機会に。