「諏訪古事記 その9」

今回は近江の国、滋賀県への出張です。諏訪に飽きたわけではありません。諏訪明神の謎を解く鍵を求めて近江を訪れました。

諏訪には甲賀三郎伝説なるものが伝わっています。
甲賀三郎はある理由で龍に姿を変えてしまうんですが、人が龍になったのではなく、元々は龍が人の姿として現れていたのでしょう。
この甲賀三郎とは諏訪明神の仮の姿であり、諏訪に伝わる龍蛇信仰から生まれた物語かと思われますが、冬になって諏訪湖が凍ると現れる御渡りを、古くから龍に見立てていたのでしょうか。
その甲賀三郎(諏訪明神)の氏神こそが近江の国の兵主(ひょうず)大明神であるとの研究があり、滋賀県野洲市の兵主神社へ話を聞きに行ってまいりました。

小さな村社だと思っていたので驚きました、兵主神社。
何ですかこの立派な門構えに広い境内、おもむきのある社、国指定の見事な庭園は。
それで、2018年に予定されている創建1300年祭に向けての大きな案内看板が駐車場前にあり、こんなことが書かれてあるもんだからいきなりヘニョヘニョになってしまったではないか。
「兵主神(大国主命・八千矛神)は養老2年(718年)に奈良県穴師から大津市穴太を経て八ヶ崎(諏訪湖畔)に上陸しました」
「中国山東省の兵主神を探訪(八神信仰のひとつ)…………」
兵主神は大国主命で、出身は中国山東省なんですか?

社務所で尋ねました。
「こちらの御祭神は兵主神と呼ばれる神様ですか?」
「いえ、大国主命です」
「えっ、では兵主神とは別の神様なんでしょうか?」
「その兵主神が大国主命で、八千矛神でもあります。あちらの扉が庭園の入り口になっております。どうぞごゆっくり」(庭園は有料)
まぁ出雲の大国主命については古事記の記述をいっさい信用してないので、少々の異説には驚きませんが、中国山東省で祀られてた神と大国主命や八千矛神が同一との見方があるとは知りませんでした。
最近は大国主命について、初期のころの出雲国造数代をまとめて大国主命と呼んでいると考えていたので、これは刺激になります。
けど、もう庭園どころじゃない。

ウワノソラで庭園をぐるりと散策してから再び社務所に戻り、宮司さんに嫌がられつつもしつこくねちっこく根掘り葉掘り聞き続けていたら、やっと真相が見えてきました。宮司さんは”二度と来るな”と思われたでしょうけど。
要するに、天皇家につながる神は天津神とされ、そうでない地方の神は国津神に分けられたので兵主神も大国主であり、兵主神が誰であるかをそれほど追究することは意味がないのでは…………と。
おっしゃることが判らない訳でもありませんが、ハイそうですかと引き下がるほどの安易な気持ちで古代史をやってませんので他から探ってみることにします。

兵主神社と同じ野洲市に”鏡”という地名があります。銅鐸博物館の近くです。
「日之本開闢」には奈良県田原本町の鏡作神社が登場しますが、野洲市にも鏡神社があるため寄ってみました。
別に銅鏡を調べたかったわけではなく、この”鏡”という地名は額田王(ぬかたのおおきみ)と係わりがあるようで、額田王の父の出身地かもしれないからです。
で、この鏡神社の御祭神がアメノヒボコで、えっアメノヒボコ?
アメノヒボコは日本書紀によると新羅の王子ってことになっていますが、反新羅の立場をとる日本書紀の記述なので、それもウラがあるかもしれません。
一般的にはアメノヒボコは特定の個人名ではなく、渡来系の技術者集団であろうと考えられていますが、関裕二さんによればアメノヒボコ=ツヌガアラシトとのことで、さらに=スサノヲになってしまって、もう諏訪明神はどこかへ行ってしまった感があります。あぁどうしよう。

実は兵主神社へ行く前に東近江市の鬼室(きしつ)神社を調べたんですが、その界隈は天智朝時代に百済から亡命してきた王族約700人が移り住んだ地であり、その中にいた鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓があるのが鬼室神社です。
天智も来日前は百済の王子でしょうから、白村江の戦いに敗れて行き場を失っていた天智が逃げるようにして大津へ遷都するほど、近江には古くから百済人が多く暮らしていたはずです。
今日は朝から百済・唐・新羅と続いているので、次はきっと高句麗でしょう。