「諏訪古事記 番外編その11」

静岡県御前崎市の”桜ヶ池”では、お米を詰めたお櫃(ひつ)を池底の龍神にお供えするお櫃神事で、池に沈めたお櫃が諏訪湖に浮かび上がるという言い伝えが残されています。
また、真意はどうあれ静岡県浜松市の岩水寺裏手の洞窟も諏訪に通じていると、文献に残されているそうです。

逆に、諏訪大社の摂社で茅野市にある葛井(くずい)神社では、大晦日におこなう神事で神社の裏にある清池に投げ入れた弊帛(へいはく)・榊や柳の枝・柏の葉が翌朝には遠江(静岡県西部)の”さなぎ池”に浮かぶとの伝承が残されています。ただし、その”さなぎ池”がどこにあるかは判っていません。

で、その葛井神社の清池なんですけども、同じ茅野市で玉川地区の多留姫(たるひめ)神社からすぐ脇の谷へ下ること30メートルほどのところにある”多留姫の滝”では、滝壺に糠を投げ入れると葛井神社裏の清池(オクズイサマの池)に浮かび上がると伝えられていまして、多留姫とは諏訪明神(タケミナカタのことか?)の娘になっていますが、地下つながりが好きなのね諏訪や茅野、です。

他にも諏訪地方と静岡県が地下でつながっているといった伝承はたくさんあり、判っている範囲でも20を超すそうなんです。
たしかに糸魚川ー静岡構造線は諏訪を通っていますし、その諏訪に中央構造線もぶつかっています。
つまり諏訪は糸魚川ー静岡構造線と中央構造線の交差点というか三叉路に当たっているわけだから、地下で諏訪と静岡方面がつながっているという伝承は判らないでもありません。
ですが、だったら何で諏訪と糸魚川を地下で結ぶ伝承がないのか?
あるいは糸魚川と静岡ではそれがないのか?

今から約1万8千年ほど昔のことなので、縄文時代を迎える3~4千年前の旧石器時代になりますが、静岡県東部やお隣の愛知県西部にもすでに人が暮らしていました。かつては三ヶ日原人とか牛川原人と呼んでいましたか、最近は”原”を付けずに呼ぶようでして、浜松で見つかった古代人も浜北人と呼びます。

当時、滔々(とうとう)と流れる天竜川を見て、浜北人は思ったのでしょう。「この川はどこから流れてくるんだろうか」と。
そしてある時、好奇心旺盛な連中が天竜川沿いにどこまでもどこまでも遡っていったとさ。
あるところは腰まで水につかって流れに逆らいつつ進み、またあるところは急峻な崖を恐る恐る這うようにして上流をめざし………あれ、この文章は誰かのパクりっぽいぞ。そうか、島崎藤村の「夜明け前」だ。冒頭の”木曽路はすべて山の中である”に続く文章にそっくりでした。失礼。
で、好奇心旺盛浜北人たちはついに天竜川の源流となる諏訪湖に行き着き、その地の美しさや自然の豊かさにこころ奪われ、やがては仲間を呼び寄せて諏訪の地に暮らすようになった…………と予想しています。

それから4~5千年の時が流れ、人々は土器を使用した生活を始めました。
それが縄文時代なんですが、太平洋側からも日本海側からも人々は諏訪湖畔や八ヶ岳山麓に集い、縄文中期には日本でもっとも人口の多い地域となったとさ。
この地域は本州でもっとも質の良い黒耀石が採れる和田峠もすぐ近くにあるため、各地から人々が諏訪の地を目指したことでしょう。
諏訪から真北に向かえば戸隠があります。
戸隠の北東には野尻湖があり、ナウマン象の化石がたくさん発見されていますし、戸隠から少し山奥へ分け入った地域では2万年前の集落跡が見つかったらしいです。
2万年前といえば縄文時代が始まる5~6千年も前のこと。もし黒耀石のナイフがあればナウマン象の肉もスパッと切り裂くことができるので、重宝したことでしょうけど、ナウマン象の話ではありませんでした。諏訪と静岡でした。

“神は地中からやってくる”
そんな思想・信仰が世界にはたくさん残っているようですが、諏訪の地でも地中から神がやってくると考えていた時代があったようでして、それが蛇信仰に結びついていたのでしょう。
諏訪大社前宮の御室神事などはまさにその現れでしょうし、諏訪と静岡を往き来した先人たちへの信仰が地中からやって来る神と結びついたのかもしれません。
さらに調べてみます。

○写真1:茅野市の葛井神社裏手の清池。
○写真2:葛井神社本殿脇に立てられた”さなぎ池”に関する案内。

2016/ 6/ 7 11:07

2016/ 6/ 7 11:07

2016/ 6/ 7 10:55

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