糺日本書紀 part5

吉備の国で作られた特殊器台がヤマトへ入り、それが古墳のまわりにズラリと並べられる円筒埴輪へと発展しました。
まぁ技術的には簡素化されているので、それを発展と言っていいかは疑問ですが、とにかく円筒埴輪の原点は吉備国で広まった特殊器台なんですね。
ではその吉備国に根付いた人たちはどこからやってきたのか?
おそらくは中国の揚子江南岸、”江南”と呼ばれる地域から渡来した人々がまずは北部九州へ上陸し、その後に瀬戸内海を航行して吉備に移り住んだんだと思われます。

岡山を訪れたことでいくつもの疑問点が解決しましたが、特に納得できたのは「塩満珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおひるたま)」のハタラキについてでして、それらの珠が潮の満ち引きを表していることは想像できますが、そのハタラキや用途がいまひとつ疑問でした。
瀬戸内海は満潮や干潮時になると全体が同時に潮が満ちたり引いたりするのではなく、外洋に面している両サイドから満ち引きが始まります。
満潮になる場合には東側の紀伊水道(大阪方面)と西側の豊後水道(九州方面)から潮が流れ入り、その塩が瀬戸内海の東西から中央に集まってくるんです。
なので満潮に向かう潮の流れに乗れば、大阪側や九州側から瀬戸内海中央に向けて潮があと押ししてくれるわけですね。
逆に岡山や福山など瀬戸内海の中央から大阪方面や九州方面に向かうのは潮の流れに逆らうことになるため、漕いでも進みが悪くなるわけです。

逆に干潮へ向かう場合もまずは外洋に面した紀伊水道と豊後水道から潮が引き始めるため、瀬戸内海の中央から東西へ潮が流れ出します。
なので岡山や福山から大阪方面や九州方面に向かうにはこのときがチャンスというわけで、太古の昔から人々はこの潮の流れを利用して北部九州と畿内ヤマトを往き来していたのでしょう。
だからポニョでも知られる福山の鞆ノ浦は”潮待ち港”って呼ばれるんですね。
その智恵こそが「塩満珠と塩乾珠」を授かるということでした。

疑問だったのは、弥生時代以前にはまだ瀬戸内海航路がまともには確立されておらず、日本海側を東に向かって若狭湾まで進み、小浜や若狭あるいは敦賀あたりで上陸。
そこから琵琶湖まではすぐですので、船で湖を縦断して畿内へたどり着いていたのか、それとも瀬戸内海も利用されていたのかということ。
「塩満珠と塩乾珠」の智恵があれば瀬戸内海を利用できたというわけでした。

それはいいんですが、吉備の取材の翌週は久しぶりに近江を調べに行き、もうね、ほぼ確信に近いものを得ました。
以前から思っていましたが、天智天皇は皇極(重祚した後は斉明)天皇の息子なんかじゃないし、そもそも皇太子ではなかったです。