糺日本書紀 part6

以前にも触れましたが、万葉集から日本書紀をひもとくと、天智天皇は間違いなく皇太子ではなくなってしまうんですが、実際にそうなのか、あるいは天武天皇側の誰かがそのように天智天皇をおとしめたのか?
万葉集のルールとして
☆天皇の歌は”御製歌”
☆皇后や皇太子の歌は”御歌”
☆その他は”歌”
とされていまして、例外はありません。約1名様を除いては。それが中大兄皇子(後の天智天皇)です。
中大兄皇子は皇太子であるにもかかわらずその歌がただの”歌”になっています。本来なら”御歌”とされなければいけないのに。
しかも作者名が中大兄になっていて呼び捨てなんです。皇太子が呼び捨てになっているのはこれも他に例がありません。通常は必ず名前のあとに”皇子”または”尊(命)”が付けられるのですが。

そして中大兄皇子の歌は即位して天皇になると”御歌”として出てきます。天皇なんだから”御製歌”でしょ。
万葉集は日本書紀の嘘をあばくためのヒントがたくさん秘められているため、天智天皇については正統な皇位継承者ではないことを後世に知らしめてくれているのでしょうか。
(参照「捏造された天皇・天智」渡辺康則著)

ではいったい中大兄って誰なんだってことですが、百済の王子で間違いないでしょう。
小林惠子著「本当は怖ろしい万葉集」によれば、641年の11月に百済王子の中大兄は母親とともに済州島へ流されたようです。
その後、筑紫に上陸すると大王の座につくための野望が炸裂。
特に大海人(のちの天武天皇)との争いは最高傑作でして、まさに百済+唐 vs 新羅+高句麗の争いなんですが、日本書紀はそれを見事に日本人同士のストーリーとして創作し、国内問題に置き換えて処理してしまったわけです。お見事!

663年、敗けることが判っていても百済へ兵を送った天智天皇は、もともとが百済の王子なのでそうせざるを得なかったのでしょう。
百済は660年に滅ぼされていますが、その後もまだまだ民兵たちが新羅の兵と戦っており、それで援軍を送り込んだのが白村江の戦いというわけです。

中大兄には済州島時代に現地女性との間に長男が生まれています。日本名の高市皇子(たけちのみこ)。
彼の来日は661年5月とのことです。百済が新羅によって滅ぼされた直後ですね。高市皇子の現地名は阿波伎(あはき)王子。
万葉集の歌を古代韓国語でひもといているイ・ヨンヒ著「天武と持統」によれば、高市皇子の歌を古代韓国語で解釈すると、そこには済州島のなまりがあるそうです。
何だかスゴい話だ。
ちなみに第41代の天皇である女帝持統は鵜野讃良(ウノノサララ)ということになっています。つまり持統天皇は女帝だと。
ですがサララはおそらく即位しておらず、実際の持統天皇とは高市皇子のことで、男です。

日本書紀では高市の父親が天武天皇になっていますが、それも捏造ということになるわけでして、本当の父親は天智天皇なので、となると高市の子の長屋王も天武天皇の孫ではなく、天智天皇の孫ということになります。
藤原不比等が死んだ直後から実権を握った長屋王は、諏訪を支配したくても現地では受け入れてもらえず、業を煮やして721年に諏訪地方を信濃国から独立させてしまいました。周辺から隔離したかったのでしょう。ただし、独立させた諏訪国の範囲がはっきり判っておらず、この独立については未だに謎だらけです。
そして724年には諏訪を流刑の地にしていますが、長屋王が藤原の策略によって殺されたのち、諏訪は信濃国に再び編入されています。けど天智とは関係ないし、そのあたりについては「諏訪古事記」に詳しく書きました。

というわけで、天智天皇は百済の王子であり、正統な皇位継承権を持たない立場だったわけですが、もっと皇位から離れた人物がいまして、それが天武天皇です。これが何とも厄介で…………