糺日本書紀 part7

これまで高市(タケチ)皇子の父は天武天皇と考えられてきました。
壬申の乱においても高市皇子は大海人皇子(のちの天武天皇)に味方をしており、そのことについても疑問視されることはありません。
しかし高市皇子の父は天智天皇です。
ではなぜ壬申の乱で同じく天智天皇を父に持つ大友皇子側につかなかったのでしょう。母は違っても兄弟なんだから。

実は高市皇子にとって一番の敵は身内にいて、それが同じ父を持つ大友皇子です。
高市皇子にとっては自分が即位するために大友皇子が邪魔で仕方ありません。
そこで高市皇子は壬申の乱で、大友皇子にとって最大の敵である大海人(天武天皇)と”敵の敵は味方”同盟を結び、親子の契りを交わして近江王朝側と戦ったんです。その契りから高市皇子は天武天皇の皇子ということになりました。

藤原鎌足の子とされている不比等も実は鎌足の子ではなく、天智天皇の子のようです。
やがて成人した不比等は、高市皇子など同じ天智天皇の子ども同士で協力するかといえばまったくそんなことはなく、むしろ正反対です。
おそらく不比等は高市皇子が大嫌いで、もっとも憎んでいました。
自分も天智天皇の子であるのに、ナゼ母の身分が低いというだけで即位する資格が与えられないんだ、と。
なので本当の持統天皇=高市皇子を消し去ったのは、天武天皇の皇后ウノノサララと組んだ不比等たちであろうと考えています。
ちなみに万葉歌人の柿本人麻呂は完全に高市皇子派であり、反天武天皇の立場でした。

とここまで書いておきながら大問題が発生!
天智天皇の子であろうと考えていた藤原不比等ですが、天武天皇の子である可能性が見つかってしまい、そうなると日本書紀を誰が何の目的で改ざんしたかについても始めから考え直さなければならず、なので不比等の父親は誰でしょう問題はしばらく棚に上げておきます。

日本書紀が改ざんされた最大の目的のひとつは、天智天皇がいかにもヤマトを拠点に皇太子あるいは天皇(当時はまだ大王=オオキミ)として君臨していたように見せかけることなんです。
というのも、中大兄(天智天皇)の力はほとんどヤマトまで及ばず、ヤマト国とは別の筑紫の王でしかなかったということ。
とはいえ北部九州は大陸からの玄関口なので、5世紀か6世紀ごろまではヤマトより栄えていたのでしょうし、7世紀以降も重要な拠点であったことに違いはありません。
しかし、天智天皇・天武天皇の時代になると京(ミヤコ)はヤマトになるわけでして、唐や新羅からすれば筑紫の王は地方の長であっても、中央のトップではありません。
そこで日本書紀は、天智天皇が筑紫にいながら、いかにもヤマトに君臨しているような小細工を大量に施したわけです。

★断っておきますけども、筑紫を見下しているわけでもなければ、古代の九州王朝の存在を否定しているのでもありませんからね。お願いしますよ、福岡の皆さん。

では、天智天皇が筑紫において白村江の戦いの敗戦処理に追われているころ、ヤマトは誰が支配していたかというと大海人皇子(天武天皇)でしょうけど、実際に誰かが即位していたのか、それとも大王(天皇)がいない空白期間だったのかがはっきりしません。何しろ日本書紀は改ざんが繰り返されているのですから。

で、そのことよりも問題なのが、天武天皇っていったい誰なんだってこと。
かつて連載した「遷都信濃国」でもそのテーマを取り上げましたが、今は天武天皇の正体について
☆新羅の王族である金多遂(キン・タスイ)
よりも可能性としては
☆高句麗の武将である淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)
のほうが高いかなと考えるようになりました。今は、ですよ。古代史の答えは今の答えでしかありませんので。
判りませんよ、天智天皇に殺されたことになってる古人大兄人かもしれません。
あるいは、唐に学んで帰国した高向玄理が斉明天皇に生ませた漢皇子(アヤノミコ)かもしれませんよ、天武天皇って。
あぁ、何だかアタマが痛くなってきたので純米吟醸で脳に栄養補給してこよっと。