「遷都信濃国 vol.2」

天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱において大友皇子に勝利できたのは、美濃・尾張の協力があったからに他ならないんですが、尾張氏については長くなりすぎるので、まずは美濃のお話から。

不破関が置かれた関ヶ原から岐阜方面へ向かうこと約5㎞で南宮大社に着きます。
隣の大垣市赤坂町の金生(きんしょう)山は純度の高い赤鉄鉱の鉱脈があり、数十センチ掘るだけで良質の鉄が採取できました。
そのため古くから製鉄が盛んで、製鉄技術を持ち込んだ部族を金山彦として祀ったのが南宮大社なのでしょう。

南宮大社の御祭神金山彦をニギハヤヒに比定する説は個人的に心地いいものですが、希望的観測を省けば製鉄技術を持ち込んだの人々を崇めて金山彦と呼んだ。そう考えるべきなのかもしれません。

一方、諏訪のタケミナカタが出雲から移って来たと仮定すると、ミナカタの名は製鉄に係わる名前との研究もあり、やはり鉄が鍵になるようです。
武田信玄がナゼのぼり旗に「諏訪南宮法従大明神」の名をかかげたのか、それもこれから調べますが、壬申の乱で天武天皇が美濃・尾張の力によって大友皇子に勝利したのは確かなこと。
なので、天武天皇の信濃遷都にこの”南宮”が何か影響しているのかどうかがひとつ。

諏訪大社の社務所ではこんな話も聞きました。
「出雲を制圧した者たちは、諏訪の黒曜石が欲しかったのではないかと考えています」
黒曜石は諏訪以外の地でもも採れますが限られていて、北海道、隠岐、九州、そして長野。
特に諏訪から佐久へ抜ける和田峠や霧ヶ峰の黒曜石は良質のようです。

諏訪から北へ向かえば、古くから出雲との往来が盛んだった糸魚川へ抜けます。
そうです。勾玉造りに必要な姫川翡翠の産地であり、出雲を制圧した者たちが神話でタケミナカタを負け犬に描いた理由は、黒曜石や翡翠を独占したかったからかもしれません。

話は変わって西暦686年(朱鳥元年)6月、天武天皇が病に倒れたところ、卜占(ぼくせん)では神剣の祟りだと出たため、熱田に神剣を返しました。
この神剣とは草薙剣のことですが、天武天皇の時代に草薙剣はまだ三種神器に含まれていなかったため、もともと熱田にあった剣を朝廷が奪ったのでしょう。

天皇にも祟るような剣を、どうしてヤマトタケルは持つことができたのかって話ですが、ヤマトタケルは熱田の剣を持つことができる正統な血筋だからなのでしょう。
しかし、です。
古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」、どちらもヤマトタケルノミコトなんですが、この名前を聞くたびに悔しい思いに駆られます。
ヤマトタケルって、現代風に訳すと”日本の勇敢な男子”でして、固有名詞ではありません。完璧に名前を消されてます。
しかも国民がそろって可笑しな名前を受け入れてるもんだから、それがいったい誰なのか判りゃしません。
ホントは誰なんだ、ヤマトタケルって。

ヤマトタケルは女装して熊襲タケルを騙してもなければ、剣を持たずに伊吹山へ悪神退治にも行ってないでしょ。
荒々しさを表現したかったのか、10尺(3メートル)の背丈としておきながら、そんなのが女装して騙される連中がいるわけないし、戦いに行くのに剣を持たずに手ぶらで行くこともあり得ない。
戦へ刀を持たずに行く武士がいるかってこと。

ヤマトタケルが景行天皇の皇子であることも不自然ですし、景行天皇って生まれたのが紀元前13年だったり、143歳で亡くなってたりで何もかもデタラメでして、そもそも景行天皇は実在しているのですか?
ヤマトタケル(と呼ばれてる人)の功績を奪うために創作された架空の天皇である………と、秘かに思っているんですけど。

まぁそれはともかく、本当に天武天皇は剣の祟りで病に倒れたのでしょうか?
もし不比等氏が、百済系の天智天皇と父(とされている)藤原鎌足を擁護し、新羅系の天武天皇を貶めるために創作した話だとすると…………

続く