「遷都信濃国 vol.8」

天武天皇は「天文遁甲(てんもんとんこう)」と呼ばれる占いに精通していたようです。
“天文”とは天体の動きで吉凶を占う占星術のことであり、”遁甲”は呪術の一種で戦の勝敗や農作物の出来を占う手段でして、どちらも中国から伝わってきています。
のちの陰陽師みたいですね。

さて、どうしてこんな話を持ち出したかと申しますと、もし天武天皇が信濃国を遷都先に選んだ理由(あるいは理由のひとつが)が「天文遁甲」による占いだとしたら?
そうなると残された文献などから歴史をひもとくことが困難になってしまいます。
しかし現代とは違って、古き時代は長く祭政一致で「マツリゴト」をおこなってきたでしょうから、それを推し量らずして歴史の謎に迫れるのかは難しいところです。
※「マツリゴト」とは、祭り・奉(まつ)り・祀(まつ)りだけがマツリゴトはでなく、”政”もマツリゴトと読み、祭事と政治は別々でない=祭政一致で国を治めることです。

妙見、天帝、太一、あるいは北極星、北斗七星、シリウス…………星信仰の代表的な対象がそれらですね。
天武天皇や持統天皇も星信仰に熱心だったようで、もし「天文遁甲」の占いにより”北東に遷都せよ”的な答えが出て、天武天皇はそれに従おうとしたのなら………
奈良県の明日香から長野県の浅間温泉(松本市)はわりと正確に北東方向に当たります。
ただし、北東方向であっても、ナゼ浅間温泉なのかは他にも理由があったはずで、それが判らなければ仮説としても成り立ちませんね。

天武天皇の皇后で第41代持統天皇も不思議で怪しく、書き出したらキリがないのですが、数霊的に「41」なのは意図的か、とさえ思えてきます。
また、命日が12月22日で、当時は太陽暦ではないため冬至ではありませんが、”冬至”をひっくり返して”至冬”にすると”持統”やないかいな。
さて、持統も星信仰には熱心だったらしく、占いの結果が北東への遷都だとしたら、天武天皇の後押しをしたのかもしれませんね。

しかし、そうなってくると歴史をひもとくことは困難ですし、その前に
持統は本当に天智の娘なのか?
持統は本当に即位していたのか?
持統って誰なのさ?
何で7年か8年かの間に吉野へ30数回も通ったのさ?
まさか吉野で不比等と密会してたんじゃないんでしょうねぇ?
あれ、ちょっと待て。
不比等は天智天皇の隠し子で、中臣(藤原)鎌足に養子として出した子。
持統も天智の娘だとしたら、母親が誰かにもよりますが、不比等との恋はどうなるのでしょう?
それとも持統は天智の娘ではないのでしょうか?
そもそも天智は、自分の弟(ということになっている)天武に4人もの娘を嫁がせるってこと自体、あぁそうですかと受け入れるわけにはいきませんでしょ。
さらには持統架空説までありまして、それも納得できてしまうので悩みます。

話を戻しまして、天武天皇です。
天武の正体があまりにも謎に満ちているため、本当は古人かもしれない説以外にもたくさんの仮説が存在しています。
例えば新羅の金多遂が日本にやって来て天武になった説。
あるいは高句麗?の蓋蘇文こそが天武であろう説。
そうなってきますと、天智は百済の余豊璋です説やら中臣(藤原)鎌足は新羅の…………キリがない。

正統的?な仮説としまして、天武は漢王(あやのみこ)ではなかろうかとも考えられています。
漢王は天智にとって異父兄にあたります。つまり母親は同じで宝皇女(たからのひめみこ………のちの第35代皇極天皇であり第37代斉明天皇)です。
ただし、実際に天智の母がその人なのかは疑問でして、そのあたりも日本書紀は天智にとって都合がいいように書き換えられてしまっていますから。
書き換えたのは天智の隠し子藤原不比等でしょう。

ならば斉明天皇(皇極天皇)は誰かと申しますと、聖徳太子の最初の妻なのだとか…………?
ダメだ、今回は話がまとまらないのでvol.9で出直します。