「諏訪古事記 その11」

古事記に登場するタケミナカタが誰を(何を)表現しているのかはまだ答えを出せていませんが、個人であろうが集団であろうがもし諏訪へ渡って来た出雲族だとすると、どうしても腑に落ちないことがあります。
諏訪にやって来た時代がいつなのかにもよりますが、諏訪ではタケミナカタが出雲から稲作を持ち込んだと考える研究者がたくさんいて、ということは弥生時代になります。
だとするとナゼ諏訪ではもっと銅鐸が出土しないのかということ。
出雲の荒神谷遺跡では銅剣358本が発見されたわずか7メートル東の斜面から銅鐸6個と銅矛16本が出土しましたし、荒神谷遺跡から南東約3キロの距離にある加茂岩倉遺跡からは実に39個の銅鐸が見つかっています。

長野県では平成19年に北信地方(諏訪よりずーっと北の地域)の中野市柳沢遺跡から銅鐸を含む青銅器が出土しましたが、それまでは銅鐸分布圏外であると考えられていました。
そして諏訪地方では三遠式と呼ばれる後期型の柴宮銅鐸がひとつだけしか発見されていないんです。
弥生時代は今まで考えられていたよりも実際は長かったことが最近になって判明しまして、その中で銅鐸時代は短期間なので時代が違っていただけなのかもしれませんが、タケミナカタが弥生時代に出雲から稲作を持ち込み、出雲と諏訪に人の往来があれば諏訪でも複数の銅鐸が出土してもよさそうなもんですが………

出雲はある時期まで…………朝廷側に支配され、出雲国の中心地が東出雲の神魂(かもす)神社や熊野大社から、現在の西出雲へ移る(移らされた)まで…………は反朝廷の急先鋒だったわけで、朝廷側からすれば配下におさまらない”まつろわぬ者ども”の地なので、出雲独自の文化が諏訪にも持ち込まれていそうなんですけど、ナゼ銅鐸は諏訪に伝わらなかったのでしょう。
弥生時代は銅鐸文化が生まれる前から始まっていますが、出雲族が諏訪を発展させたのならその後に持ち込んでいてもいいはずです。

また四隅突出型墳丘墓…………古墳ではなく墳丘墓と呼ばれるのは、古墳時代以前のお墓だからでして、呼び方が違うだけで目的は一緒です。同じ型のお墓でも古墳時代に造られていれば四隅突出型古墳と呼ばれるのですから…………も弥生時代後期に出雲で発展して、それが山陰から北陸ま日本海を伝わっていますが、内陸部では広島以外には見られませんし諏訪でも見つかる気配がありません。

かといって、朝廷の許可がなければ造れなかったであろう前方後円墳も諏訪には下社(春宮・秋宮)地区に青塚古墳が1基あるだけですが、下社地区は朝廷の配下にあったので問題はありません。
タケミナカタの本拠地は上社(前宮・本宮)地区でして、上社地区も朝廷には厄介な”まつろわぬ者ども”の地なので前方後円墳はありません。けど四隅突出型墳丘墓も伝わっていないんです。

ひょっとしてですよ、出雲族が諏訪に新たな文化を持ち込んだのではなく、出雲から糸魚川の翡翠を求めてやって来た者たちが姫川をさかのぼり、安曇野を抜けて諏訪まで来た。
そしたら”須羽の海(諏訪湖)”の周辺や八ヶ岳山麓が予想以上に栄えていて、そこに根付いた縄文時代から続く文化にのみ込まれてしまった、なんてことはないのでしょうか。えぇ、ないんじゃないの。あぁそうですか、すいませんねぇ、いい加減な話で。

出雲と諏訪の関係について書かれた書籍や研究資料はたくさんありますが、古事記については史実として考えた場合まるっきりデタラメだから問題外で、他の真面目な研究も推測の域を出ていないため、なかなか真相がつかめません。
4月は御柱祭りの「山出し」で、5月は「里曳き」で諏訪へは何度も訪れる予定ですので、なるべく「お接待」のお酒には手を出さず、地元の研究家に話を聞いてまわりたいと思っています。
だだし、そう思っているだけなので”飲めや飲めや”の誘いを断り続ける自信はなく、むしろ100%不可能でしょうし、人の親切を無駄にしてはいけないと校長先生も朝礼でおっしゃってたので、飲める分は頑張って飲んでみよう、それがいい。ですからからどうなるか判りませんです。