日々是白馬村 part 29

今から60数年前、ボクの母がまだ学生だったころのお話しです。当然ながらボクはこの世に存在してません。
母は若かりしころスキーをするために白馬村へ来ると五龍館を訪ね、布団部屋に寝泊まりさせてもらいつつ旅館の仕事を手伝っていたそうです。
仕事が一段落する昼前になると女将さんがおにぎりを握ってくれるので、母はそのおにぎりをリュックにつめて八方尾根スキー場へ滑りに行っていたとのこと。夕食の準備が始まる時間には旅館へ戻ってまた手伝いをしていたのでしょう。
そんな訳でボクも幼いころから白馬村へ連れて来られていて、ボクの白馬村好きは母から受け継いだ遺伝子に刻まれているので年季が入っています。
現在の五龍館(写真 1)。

今はこのように立派なたたずまい(写真中央よりやや右の大きな建物)で、背後が八方尾根スキー場。左にはジャンプ台が、その左上に五竜岳が見られます。五竜岳と五龍館。
母が来ていたころはもう少しスキー場に近い位置の小さな旅館で、半世紀以上前にボクが初めて五龍館を訪れたときの写真が残ってました。
母は2012年に他界しましたが、ボクが白馬村へ移住したことを知ったら相変わらずのアホさ加減に呆れつつも羨ましがるかもしれないですね。

母が愛知県春日井市から汽車で白馬村へ来ていたころの白馬駅はまだ信濃四ッ谷駅という名前でした。信濃四ッ谷駅が白馬駅になったのは昭和43年10月1日のことです。
東京には中央線に信濃駅と四ッ谷駅が並んでいるので何かしら白馬村と関連があるのではと出版社の「0898(Oh!白馬)」氏に調べてもらったところ、信濃駅は信濃国(長野県)との関係が確認されましたが、四ッ谷駅は白馬村との関わりはなさそうでした。

母が学生時代に訪れていた昭和30年代前半の信濃四ッ谷駅と現在の白馬駅を比べても、迎えてくれるアルプスの姿は変わってないのでしょうね。改札を出たらこんな景色です(写真 2)。

そもそも白馬村が白馬村になったのは北城村と神城村が合併した昭和31年9月30日のことです。ということは白馬村ができたてホヤホヤのころから母はここへ来ていたことになり、今さらながらちょっと尊敬する。

それ以前から白馬の名前があったにはあったんですが、行政区名としては昭和29年6月1日に信濃四ッ谷駅周辺の地区が「四ッ谷区」から「白馬町」に改名したことに始まります。つまり白馬村の誕生よりも先に北城村内の四ッ谷区が白馬町になっていたんですね。
その経緯が笑えます。

松本駅から信濃大町駅まで汽車が走り出したのは大正5年のこと。
それから鉄道は徐々に延び、信濃四ッ谷駅(現在の白馬駅)まで開通したのは昭和7年でした。
しかし松本から新潟県の糸魚川まで結ばれるはずの未開通区間は戦争によって工事が中断してしまったんです。
やがて戦争が終わり工事が再開されると、長野県と新潟県の県境で新潟県側にある平岩集落にも駅が開設されることになりました。
そこで平岩集落の人たちは平岩の名を白馬町に改称するから、駅の名前も白馬駅にしてほしいと国鉄に掛け合っていたんです。
そのことを風の噂で聞いた北城村の信濃四ッ谷駅周辺の人々は
「冗談じゃねえぜ、越後の連中に白馬の名前を使わせてたまるかってえの」
「野郎め、だったらこっちがさっさと白馬町の名前にしてやろうじゃねえか」
「あー、たしかにそうだ。オメーの言うとおりだぜ、baby」
「そうと決まればさっそく行動を開始しようぜ、ラッケンロール」

みたいな会話があったとの議事録は残ってませんが、新潟県の平岩集落に鉄道が通る前に北城村の四ッ谷区は地名を白馬町に改称したんだぜ、baby。おっと失礼。改称しました。昭和29年6月1日のことです。
そして新潟県の平岩集落に鉄道が通ったのは昭和32年で、駅名は平岩駅に落ち着いたんだとさ。
しかし信濃四ッ谷駅の名前はまだ信濃四ッ谷のまま。
昭和43年になり10月1日、とうとう信濃四ッ谷駅が白馬駅になりまして、めでたしめでたし。
ボクが初めて白馬村を訪れたのは昭和43年か44年の春のことで、もし43年ならばまだ信濃四ッ谷駅だったわけだから、駅前で写した写真があればと思うと実に惜しい。けど44年だったかもしれない。
どちらにしても父の車で来たので駅には行ってなかったりして。

こういった歴史は役場や村の教育委員会へ行って仕事の邪魔になることお構いなしに根ほり葉ほり質問したり、図書館で職員を巻き込んで一緒に資料を調べていると笑える話がたくさん出てきて楽しいのなんのって。しかも無料ですから。
資料にはこんなのもありました。
明治39年7月、大町~平川区(現在の白馬駅周辺。四ッ谷区になる前の地名)間を乗り合い馬車と人力車が営業を開始する。5時間を要した。
大正14年1月、この年の神城村の自転車数178台、荷積み馬車35台、荷車89台。
昭和2年、この年に神城村へリヤカーが3台入る…………等々。なんと微笑ましいこと。

長野県と新潟県の県境では昔から対立があり、江戸時代に起きた騒動については数霊シリーズ「諏訪古事記」を執筆中に小谷村の役場へ取材に行った際、詳しい資料をいただきました。
ときは元禄13年(1700年)、信濃国(長野県)と越後国(新潟県)の農民が小谷(おたり)村の所属めぐって争い、幕府に訴状を提出しました。信越国境争論です。
結果として小谷村は信濃国に属しているということになりましたが、決め手となったのが小谷村では昔から薙鎌(なぎがま)打ち神事がおこなわれていたため、幕府は小谷村を諏訪の領地と判断したようです。
けど実際のところ、諏訪は幕府にも手が出せない何かしらの力があったんだと思いますよ。縄文時代から始まって、弥生・古墳・飛鳥・奈良・平安から戦国・安土桃山・江戸時代に至るまで、権力が及ばない何かしらの力が。

薙鎌打ち神事については日々是白馬村の「移住前 part 1」でもほんの少しだけ触れていますが、諏訪大社のオンバシラ大祭を控えた前年に小谷村の宮諏訪神社と小倉明神で交互におこなう特殊な神事で、現在でも諏訪から参加を許された関係者が赴いて神事を継承しています。
オンバシラ大祭が6年ごとなので、宮諏訪神社と小倉明神は12年に1度の神事ということになり、御神木に打ち込まれる薙鎌がこれです(写真 3)。

この写真、大社としてはあまり公開されたくないようで、レプリカが作られるのを避けるためだと聞きました。
きっとアホなマニアが真似して作っちゃうんでしょうね。こんなふうに(写真 4)。

ちなみに、オンバシラ大祭は氏子の祭りであって、諏訪大社が主催の祭りではありません。主役は氏子とオンバシラです。
母の思い出と白馬村の歴史についての話が、いつの間にかオンバシラ話題になってしまいました。