カテゴリー別アーカイブ: 弥栄古代史研究室

糺日本書紀 part16

大和天智が蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)した後におこなったことになっている中央集権的な国家体制である律令制度(大化の改新)は、大和天智=鎌足が蘇我氏の政策を横取りしたのであり、本来は蘇我馬子・蝦夷・入鹿らの蘇我氏が進めていた国造りであると最近では考えられるようになっています。
ということは学校で教わる、蘇我氏が律令改革に反対したり横暴に振る舞ったから大和天智(当時は中大兄皇子)と鎌足が蘇我入鹿を殺害したというのはデタラメで、実は蘇我氏が律令制度を整えようとしていたのでしょう。
けど、大和天智は存在せず鎌足のことですから、鎌足は蘇我倉山田石川麻呂をそそのかして入鹿を呼び出し、現在も入鹿の首塚があるあたりで殺害したと思われます。
ということは、皇極天皇の目の前で入鹿の首がはねられた日本書紀のあのシーンもまったくの作り話ですね。
そもそもあのシーン……………

続きを読む

糺日本書紀 part15

part13では、天武天皇の正体は郭務宗(カクムソウ)の可能性がありそうだ、ということで終わってましたね。
ですけど実はカクムソウって藤原鎌足に比定されていまして、それはそれで納得できてしまうので事は単純じゃないんです。もちろん余豊璋(ヨホウショウ)=鎌足説も捨てきれませんが。

まず、鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇。けど天智の時代はまだ天皇の呼称がなかったので本来は天智大王)が出会ったきっかけは、中大兄が蹴鞠をしていたら靴が飛んでいってしまい、それを鎌足が拾って中大兄に履かせてあげたことになってます。もちろん作り話ですけど。

鎌足ってナニ者?
だって、皇太子ということになっている人が遊んでるすぐ近くにいられること自体、鎌足はフツーの人じゃないわけで、日本書紀の編者もそれは隠そうとしていません。

続き

さーてと、その天智天皇ですが実は存在していなかったとしたら。
そんなことを言おうもんなら九州から大バッシングを受けることになりますので説明しますと、九州にはいましたよ、中大兄皇子は。
北部九州では実際に百済から亡命してきた王族の皇太子という立場だったのでしょう。
だから中大兄皇子は実在していますが、九州にいた中大兄皇子のことを今後は九州天智と呼ぶことにします。
九州にいたころはまだ天智天皇として即位してませんが、今後の話の性質上、九州天智のほうが判りやすいと思われますので。

では存在しなかったかもしれない天智って誰のことなんだって話ですが、大和にいたことになっている中大兄皇子および即位後の天智天皇が実はいなかったかもしれないんです。
だったら日本書紀に出てくる大和の中大兄皇子や天智天皇はどう説明するのか?
はい。その前に日本書紀で大和にいたことになっている中大兄皇子と天智天皇についてを今後は大和天智と呼びます。

おそらく九州天智は大和に入ってません。仮に畿内へは来たことがあったとしても、難波あたりまででしょう。
日本書紀の天智期もまったく内容がなく、仕方ないのでテキトーに書いたとしか考えられませんし。
しかしそうであっても日本書紀では大和天智は存在しますよね。
それではその大和天智とは?

日本書紀では671年10月17日、大和天智の病いが深刻になり、12月3日に近江宮(大津宮)で崩御されたことになっています。病死です。
しかし「扶桑略記」ではまったく違った記述があり、大和天智は山科へ狩りに行ったまま行方不明になって、しかも遺体は見つからずに靴だけが残されていたことになっているんです。遺体が見つからないって、天皇だろうに、天智は!
ちなみに山科は鎌足の本拠地です。
そして、靴が残ったってか!

以前、蹴鞠をしていたとき中大兄皇子に靴を履かせたのは誰だったでしょうか?
そう、鎌足です。
そして最期は遺体が見つからず、靴だけが残されていた。
これは「扶桑略記」の編者が後世に真実を残してくれているのであり、しかし編者としてはこれ以上のことが書けなかったのではないしょうか。
鎌足が大和天智と出会ったときに履かせた靴は、今後の大和天智は鎌足の分身として歩むことになる架空の大和天智の運命を暗示していたのであり、靴を残して死んだ天智とは、まさに鎌足の足跡として歩んだ分身ということなのでしょう。
だから遺体は出てきませんよ。大和天智は架空なんだから。

というわけで大和天智は鎌足であり、鎌足の悪行と失敗した政策はすべて大和天智がやらかしたことになっているんです。
なので鎌足はどれだけ悪しきおこないをしても手を汚さずに済み、それらはすべて大和天智がやらかしたことにしてしまったという、まぁ日本書紀の恐ろしき企みにいまだ日本国民は騙され続けているのが現状です。

part16では、大和天智がやらかしたことになっている鎌足の悪行を具体的に見てまいりましょう。
たくさんありますぞ。

糺日本書紀 part14

天智・天武の両天皇の正体については調べるほどにワケが判らなくなり、判っていることは残された文献に史実はない、ということだけでしょうか。
なので今回は目先を変えて古代の道”東山道(とうさんどう)”についてです。
中でも美濃と信濃を隔てる難所”神坂(みさか)峠”については以前から疑問に思っていたことがあり、それがこのたび現地の研究者らに取材してやっと謎が解けました。

古代に整備された七つの官道、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道を道の名前と思ってましたが、行政区のことでして、その行政区を貫く街道が今はそのまま道の名前として呼ばれているわけだったんですね。

続きを読む

糺日本書紀 part13

高句麗の莫離支王蓋蘇文(がいそぶん)の長男である男生(だんしょう・ナンセム)の裏切りと唐の強大な軍事力によって高句麗が滅ぼされた(ことになっている)668年からから遡ること26年前の642年。
高句麗の首都平壌(ピョンヤン)で若かりし蓋蘇文がクーデターを起こして栄留王を殺害し、代わりに宝蔵王を擁立したことで蓋蘇文は実質上の独裁者となり、自ら莫離支王(または大莫離支)を名乗りました。
このクーデターで唐は怒り心頭に発し、唐の蓋蘇文憎しはここから始まりまってます。

それで前回の続きの高句麗滅亡なんですが…………

続きを読む

糺日本書紀 part12

天武天皇の正体が高句麗の蓋蘇文(がいそぶん)である可能性は否定してませんが、かといって納得できることばかりではありません。
そこで、埼玉県日高市に鎮座する高麗(こま)神社の高麗文康宮司に尋ねてみました。
というのも高麗家の第60代目当主である高麗宮司の著書「高麗王 若光物語」はフィクションですが、史実に基づいたであろう内容の超問題点が見事に描かれているからです。
以前、参拝に伺ったときは年に一度の例大祭当日でお忙しそうでしたし、かといって名古屋からは遠いのでその後は行くことができず、それで電話してみたところ親切に答えてくださいました。
で、その超問題点なんですが、660年に百済が新羅・唐連合に滅ぼされ(といっても王室が崩壊しただけで、国民が壊滅的な被害を受けたわけではないので地方の勢力は温存されていた)、それから間もない668年に今度は高句麗が唐によって滅ぼされてしまいましたが、その発端となったのが……………

続きを読む

糺日本書紀 part11

part9でお話しした万葉集の歌についていくつかの質問が来てますので、その関連話題をいくつかお話しします。
皆さん、万葉集に興味をお持ちなんですね。ボクは才能がないので歌がさっぱり理解できません。

さて、香久山・耳梨(耳成)山・畝傍山をそれぞれ天智天皇・天武天皇・額田王(ぬかたのおおきみ)の三角関係に例えてうたった歌は、万葉集の巻一の13番歌です。
「香久山は 畝火雄々(をを)しと 耳梨と 相争いひき 神代より 斯(か)くにあるらし 古昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき」
んー、解説してもらわないと、未だによく理解できない。

続きを読む

糺日本書紀 part10

part9の続きです。
新羅の武烈王になった金春秋は、若かりしころ蹴鞠をしていて金ユシンの妹の文姫(ぶんき)と出会いました。まぁ作り話ですけど、歴史上はそういうことになってます。
そして金春秋と文姫の間にはやがて新羅の文武王(ぶんぶおう)なる法敏が生まれるんですが………………

蹴鞠をしていて金春秋の衣装の紐が切れたとき、なぜ姉の宝姫(ほうき)は金春秋の前に姿を現さなかったのでしょう。
それは宝姫がそのときすでに妊娠していたからと推測されまして、金春秋と文姫の子になっている法敏は実は姉の宝姫が生んだ子のようなんです。なので父親は金春秋ではありません。

続きを読む

糺日本書紀 part9

日本書紀では中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣(藤原)鎌足との出会いが、中大兄皇子が蹴鞠をしていたら靴が飛んでいってしまい、それを鎌足が拾って中大兄皇子に履かせてあげたことがきっかけだったんだとさ。
まぁこの話は100%フィクションなんですが、中大兄は皇太子ということになっているので、蹴鞠をしている場へ近付くことができた鎌足はフツーの農民ではないですよね。

この創作話、実は新羅にも同じようなものがあるんです。
天智・天武と同じ時代のこと、新羅に武烈王の金春秋という武将がいました。
彼は新羅の高官であった金ユシンと蹴鞠をしていたところ、金ユシンが金春秋の衣装を踏みつけてしまい、衣装の紐が切れてしまったんです。

続きを読む

「糺日本書紀 part8」

数霊シリーズ第8弾の「諏訪古事記」にも書きましたが、天武天皇は日本書紀によると天武15年に亡くなっていることになっていますが、おそらく天武11年に天皇の立場を追われて逃げたか、あるいは殺されているはずです。
天武15年は”朱鳥(あかみとり)”という元号になっていますが、判りにくいので天武15年のままでいきますね。
日本書紀の天武期を読むと壬申の乱以外はあまり面白くなく、それが天武11年まで続くんです。
ところが天武11年の途中から、”あんた、どないしたねん”と思うほど内容が変わりまして、つまり天武天皇から他の誰かに入れ替わったことを日本書紀の編者は伝えてくれているんですね。

続きを読む

糺日本書紀 part7

これまで高市(タケチ)皇子の父は天武天皇と考えられてきました。
壬申の乱においても高市皇子は大海人皇子(のちの天武天皇)に味方をしており、そのことについても疑問視されることはありません。
しかし高市皇子の父は天智天皇です。
ではなぜ壬申の乱で同じく天智天皇を父に持つ大友皇子側につかなかったのでしょう。母は違っても兄弟なんだから。

実は高市皇子にとって一番の敵は身内にいて、それが同じ父を持つ大友皇子です。
高市皇子にとっては自分が即位するために大友皇子が邪魔で仕方ありません。
そこで高市皇子は壬申の乱で、大友皇子にとって最大の敵である大海人(天武天皇)と”敵の敵は味方”同盟を結び、親子の契りを交わして近江王朝側と戦ったんです。その契りから高市皇子は天武天皇の皇子ということになりました。

続きを読む