弥栄古代史研究室」カテゴリーアーカイブ

糺日本書紀 part 26

このコーナーをほったらかしにして2月23日で丸2年。ちょうど天皇誕生日ですね。
そして翌日24日はロシアがウクライナに侵攻して丸2年ということになりますが、何をやっているんでしょう人類は、この期に及んで。

気が付いたら日々是白馬村が part 26になっていて弥栄古代史研究室を追い抜いたので追い付き返します。別に古代史から離れていた訳ではありません。ただ、あまり集中できない時期があってついついそのままにしてました。
今回も part 24と25に続いて讖緯説(しんいせつ)話題です。(以下、シンイ説で)
久しぶりなのでシンイ説とは何かを説明しておきます。
歴史を書き残す場合、史実をそのまま書くと為政者にとって不都合になってしまうような出来事や隠しておきたい事件などを自然現象に置き換えて、一応は歴史に残しておく。それがシンイ説です。
完全に史実を抹殺して何も残さないと後世の人はそれらの出来事や事件を知りようがなくなってしまいますが、不可思議な自然現象としてでも残してくれてるのは編纂者の思いやり、親切心、まごころ、正義感、そして権力への静かな抵抗なのでしょう。
ですから古代史を解明する場合、シンイ説を理解しないことには史実・真実は見えてこないということ。

やっと、本当にやっと日本書紀の読み方が少しだけ身についてきました。いったい何年かかったことか。
今でこそはっきり言い切れますが、日本書紀も古事記もそのまま読んでるだけでは絶対に史実は理解できませんし、それは高句麗・新羅・百済の歴史書であっても中国(隋・唐)の書であってもです。というか、シンイ説は中国からの輸入です。

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「糺日本書紀」part 25

コロナ騒動のお陰で書斎に引きこもる時間が増えまして、ですからずーっと日本書紀の登場人物を、韓半島(高句麗・新羅・百済)・中国(魏・呉・蜀~唐代まで)や中央アジア(ササン朝ペルシャや周辺の騎馬民族国家)の歴史上の人物と比較してました。
また、日本書紀には頻繁に出てくる讖緯説(しんいせつ)なるものもじっくり学んでみたんです。
それで久しぶりに日本書紀を読んだら、今まで理解不能だった内容が次々と理解できて面白いのなんのって。
日本書紀って、書いてあることをそのまま真に受けていては何も理解できないってことがよーく判りました。
で、理解できると幸福感に満たされるぐらいに面白いです。

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「糺日本書紀」part 24

日本書紀を読んだことはありますか?
一応は日本の正史とされていますが、これがまた摩訶不思議といいますかオタンチンと申しますか、読み方を理解しないと読んでいてちっとも面白くないですし、アホ臭くなってきます。それにときどき腹も立ってまいります。
ですが、読み方を理解すると思った以上に史実が隠されていて、本当は何が起きていたのかを読み取ることができるんです。
編者の苦労が偲ばれます。大変だったのでしょう、政府(朝廷)や政治家(為政者)の嘘や暴挙を隠しつつ真実を残すのは。

日本書紀で天武11年(682)8月12日に
「大地震があった」
とあります。
これは世の中の出来事を自然現象や天変地異として表している”讖緯説(しんいせつ)”であり、実際に地震が起きたのだと考えていては歴史を理解できません。
ではシンイセツで地震は何を意味しているのでしょうか?

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糺日本書紀 part23

日本に仏教が伝来したとされるのは538年説と552年説がありまして、どちらかといえば538年説が有力なんですが、今回は552年説の面白いお話を。
西暦552年の日本(倭国)は欽明天皇の時代でして、仏像や経典を日本に送ったのは百済の聖王(日本では聖明王)なんです。

欽明は即位してすぐの欽明元年に都を遷しているんですが、日本書紀によれば
「都を倭国の磯城郡(しきぐん)磯城嶋(しきしま)に遷す」
とあるんですよ。
これ、おかしいと思いませんか?
例えば、令和天皇が遷都をするとした場合、都を日本の岡山に遷すって言わないでしょ。
何でわざわざ”倭国の”と入れてあるのか?
それは欽明天皇は百済からやって来た聖王その人だからでして、日本で聖王は聖明王になってます。聖王の名に欽明の”明”を入れたんでしょう。
ということは、倭国に仏像を贈ったの欽明(聖王)で、受け取ったのも欽明本人ってことです。

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糺日本書紀 part22

ヤマトタケルは、父の景行天皇から日本各地の平定を命じられ、西(九州や山陰)へ行っては熊襲タケルや出雲タケルを騙し討ちで征伐しています。
戦法としては卑怯極まりないので史実ではないでしょうし、ヤマトタケルを貶めるための悪意さえ感じる内容ですので、ヤマトタケルの血筋は列島にとって簒奪者だったのでしょう。
西から帰って来てもすぐに東(関東や東北)への遠征を命じられたヤマトタケルは父(景行天皇)を恨んでおり、倭姫に泣いてこのように訴えています。
「天皇はボクが死んでしまえばいいと思っているのか。そうとしか思えない!」って。

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糺日本書紀 番外編その1

子供が中国の大学に留学しているんですが、書道が楽しくて仕方ないみたいなんです。
それで、卒業論文も書道についてをテーマにしたようで、いつもこんなメールを送ってきます。
最近は古代史についての調べ事があまりにも忙しく、弥栄古代史研究室もほったらかしになっているので、親子のメールのやりとりで繋げておきます。

【子より】
ちょうど今、日本の書の歴史についても調べていて、厩戸皇子が記した書が天皇家の使ってる書体にとても似ているとかですが、まともに書道が伝わって来たのがちょうど厩戸皇子の時代だったり、そもそもこの書体が確立されたのが平安時代だったりと色々不可解なのですが、厩戸皇子は結局誰がいつ想像した人物なのですか?

それでもってその書体が中国には存在しない日本独自の書体ということになっていて、実際に中国で厩戸皇子の書いた筆体の特徴を捉えているものは少ないというか、ほとんどなさそうです。
それはかなり漢字伝来の時期の中国の主流の書体とは異なっていて、まぁ中国の具体的にどの地方から伝わったのかとかよくわかってないから何とも証明しようがないけど、とても1人の人が確立したとは思えないような書風です。
いったい、どうなっているんでしょうか?

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糺日本書紀 part21

中央アジアのウズベキスタンにサマルカンドという街があります。飛行場もあるのでウズベキスタンでは大きな街なのでしょう。
かつてはソビエト連邦に含まれていましたが、1991年のクーデター失敗でソビエト連邦が崩壊したため、現在は独立国として成り立っているイスラム教国家です。
そのサマルカンドという街が、ひょっとしたら日本の古代史と並々ならぬ関係にあるかもしれないんです。

6世紀の終わりごろ、サマルカンド国王として君臨していた王の妹が、西突厥(にしとっけつ)の王に嫁ぎました。西突厥は現在のカザフスタンあたりになります。

それで、王の妹の名前を調べたくて資料を探したんですがなかなか出会えず、ウズベキスタン大使館に電話してみましたが……………

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糺日本書紀 part20

大訂正その2。と言いたいところなんですがその前に、聖徳太子話題はみなさん食い付きがいいですね。
大河ドラマで国民に一番望まれてるのが聖徳太子だそうで、けど本当に実在だとすると太子は西突厥(にしとっけつ)の王か武将なので、現代でいえばカザフスタン人になってしまいます。NHKが聖徳太子役をカザフスタン人にやらせるのはまだ無理でしょうね。
それに高句麗の女性に生ませた娘を倭国(日本)へ連れてきて倭国王(天皇)にしているらしく、そんなことをNHKがどこまで描くのだろうか見てみたいですが、まぁ絶対に無理でしょうね。
そのカザフスタン人は相当な権力や腕力を振るい各地を制圧してきたようで、特に唐には反発し続けていたようです。反唐派の急先鋒ですね。まるで後の天武天皇みたいだ。

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糺日本書紀 part19

古代史についていろいろと書いてきましたが、その解釈において大訂正があります。
これまでは日本書紀のデタラメを暴くにあたり、日本書紀に描かれている世界の中で糺そうとしてきました。つまり、日本書紀は史実でないと否定しつつも、日本書紀の枠の中で物事を解決しようとしていたわけです。
とはいっても唐や三韓(百済・新羅・高句麗)、それに韓半島南端にあった伽耶諸国の歴史と比較しつつ、当然ながら倭人(日本人)であると考えがちな天皇(大王)やその近辺の人物が、少なくとも飛鳥・奈良時代までは渡来人もある程度は含まれているであると理解してました。そう、政治の中枢はに外国人もけっこういたのだと。
しかしここへ来て……………………

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糺日本書紀 part18

part16の続きです。
第36代の孝徳天皇は在位中に元号が変わっていまして、
・大化=645年6月19日~650年2月15日
・白雉(はくち)=650年2月15日~654年10月?日
なんですが、大化期は鎌足に持ち上げられた蘇我倉山田石川麻呂が即位していた可能性があると、part16ではお話しいたしました。石川麻呂が自害に追い込まれると翌年に元号が大化から白雉に変わってますし。

ちなみに天皇が在位中に元号を変えた例はいくらでもあり、令和天皇は第126代ですが、元号は大化から数えて248番目なのでほぼ2倍です。在位中にしょっちゅう改元していたんですね。
ですが、孝徳大王の場合は実際に天皇が途中で変わったとも考えられるため、それで蘇我入鹿の暗殺において鎌足に荷担した石川麻呂が大王に持ち上げられていたのではないかと考えていました。
ですが、即位していたのは石川麻呂ではなさそうでして…………

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