糺日本書紀 part18

part16の続きです。
第36代の孝徳天皇は在位中に元号が変わっていまして、
・大化=645年6月19日~650年2月15日
・白雉(はくち)=650年2月15日~654年10月?日
なんですが、大化期は鎌足に持ち上げられた蘇我倉山田石川麻呂が即位していた可能性があると、part16ではお話しいたしました。石川麻呂が自害に追い込まれると翌年に元号が大化から白雉に変わってますし。

ちなみに天皇が在位中に元号を変えた例はいくらでもあり、令和天皇は第126代ですが、元号は大化から数えて248番目なのでほぼ2倍です。在位中にしょっちゅう改元していたんですね。
ですが、孝徳大王の場合は実際に天皇が途中で変わったとも考えられるため、それで蘇我入鹿の暗殺において鎌足に荷担した石川麻呂が大王に持ち上げられていたのではないかと考えていました。
ですが、即位していたのは石川麻呂ではなさそうでして…………

アジアの古代史を俯瞰することで日本の古代史の謎をひもといている小林惠子(やすこ)さんによると、孝徳大王の前半部分(=大化時代)に即位していたのは百済の義慈(ぎじ)王その人で、すると義慈王は百済王と倭王を兼ねていたことになります。ただし、唐(=当時の中国)は義慈を百済王としては認めていても、倭王を兼ねることには反対していましたが。
そして大化から白雉への改元は、倭王が義慈から彼の息子である孝に受け継がれたということ。義慈は倭王を息子に継がせた後も百済王であり、百済が唐と新羅に滅ぼされる660年までその地位にありました。
ですから孝徳天皇は2人いることになり、前半の大化(645~650)は百済の義慈王で、後半の白雉(650~655)は義慈王の王子である孝であったと。

しかし、唐は義慈王の次の倭王に武王の王子である隆を立てたかったようです。
武王とは義慈王の前の第30代百済王で、641年3月に亡くなってます。その後に義慈が第31代の王位に就きました。
唐としては反唐派の義慈を信頼していなかったため、義慈が死んだ後には百済王や倭王を親唐派であった武の血筋に戻したかったのでしょう。
しかし義慈王は唐に従うことなく、自分の息子を倭王(孝徳天皇)として即位させてしまったというわけで、これらを理解するには歴史を解釈する脳に大変革を起こさないと難しいかもしれませんね。

ちなみに武王が亡くなった百済では、次に即位した義慈王が武王の身内40人あまりを百済から追放しています。そこには武王の王妃や王子も含まれており、たどり着いた先は済州島です。
そして、追放された武王の王妃というのが後の斉明天皇であり、王子の翹岐(ぎょうき)こそが倭国へ渡ると中大兄皇子になっている人物です。そう、あの天智天皇です。
斎明天皇は第35代の皇極が重祚(いったん退位した天皇が再び即位すること)して第37代の斉明になってまして、これがややこしいのでここでは触れませんが、天智天皇が百済の王子であることは間違いないであろうことなので、それが武王の王子の翹岐であるというのは納得です。

しかも、翹岐の父である武王も百済王と倭王を兼ねていたことになっており、それが舒明天皇なんですが、これが実態のない天皇でして、日本書紀の中だけの天皇なので話はますますややこしいです。
続く、と思う。