糺日本書紀 part21

中央アジアのウズベキスタンにサマルカンドという街があります。飛行場もあるのでウズベキスタンでは大きな街なのでしょう。
かつてはソビエト連邦に含まれていましたが、1991年のクーデター失敗でソビエト連邦が崩壊したため、現在は独立国として成り立っているイスラム教国家です。
そのサマルカンドという街が、ひょっとしたら日本の古代史と並々ならぬ関係にあるかもしれないんです。

6世紀の終わりごろ、サマルカンド国王として君臨していた王の妹が、西突厥(にしとっけつ)の王に嫁ぎました。西突厥は現在のカザフスタンあたりになります。

それで、王の妹の名前を調べたくて資料を探したんですがなかなか出会えず、ウズベキスタン大使館に電話してみましたが……………

大使館で古代史に詳しい職員は日本語が話せず英語なら対応できるそうですが、英語ではこちらが無理。
古代史の資料も詳しいものがあるにはあるけどロシア語らしく、それはもっと無理。
仕方ないからサマルカンドの観光パンフレットでも送ってもらおうとしたところ「地球の歩き方」のほうが詳しいとのこと。
ありゃりゃ、中央アジア史が専門の大学教授を探すしかなさそうです。

それで、名前は不明ですがそのサマルカンド王の妹は西突厥(にしとっけつ)王の王妃としてユーラシア大陸を東へ東へと進み、当時の高句麗(現在の北朝鮮)で娘を産んだらしいんですが、やがてその娘は百済の武王の王妃となりました。そして武王の子である王子を生みました。名前を翹岐(ぎょうき)といいます。

641年に百済で戦いがあり、それまで百済王であった武王が倒され、新たに義慈王(ぎじおう)が百済の王位に就きました。
年が開けた642年の正月、義慈王は武王の王妃や王子ら40人を済州島へと島流しにしてしまいました。王妃とはサマルカンド王の妹の娘であり、王子は翹岐(ぎょうき)のことです。
王妃らは1年ほど済州島に滞在しましたが、高句麗人の助けを借りて643年、九州に上陸したらしいんです。
問題なのはその後で、どうやら武王の王妃(サマルカンド王の妹の娘)は、のちに斉明天皇になったその人なのかもしれないんです。
たしかに斉明天皇は拝火教(ゾロアスター教)の知識があり、日本書紀にもそれを匂わせる記述がありますし、多くの研究家も認めています。
なんで斎明天皇がゾロアスター教の知識があんのやと思っていたんですが、中央アジアの出身だとしたら納得いきます。当時、イスラム教はまだ誕生してません。

武王の王妃が斉明天皇だとすると、王子の翹岐は中大兄皇子(なかのおうえのみこ)ということになり、そうです、のちの天智天皇です。
以前から天智は百済の王子だと申し上げつつも正体が判らず悩んでましたが、どうやら武王の王子である翹岐がかなり有力になってまいりました。
ちなみにですが、翹岐(天智天皇)の父である百済の武王は日本書紀に舒明天皇として登場しますが、倭王を兼ねていたわけではないので日本へは来てないと思います。つまり舒明天皇は完全に架空です。

その点、武王を排除して百済の王になった義慈王は倭王も兼ねていたようで、日本書紀に登場する孝徳天皇がその人です。
孝徳期は元号が”大化”と”白雉(はくち)”とあり、大化時代は義慈王本人が百済王と倭王を兼ねていたんですが、白雉時代は義慈王の子である孝(こう)が即位していたようですので、孝徳天皇の後半は孝みたいです。ただし、唐(中国)はそれを絶対に許さなかったので面白いことになりましたが長くなるので省略します。
以前、このコーナーで孝徳天皇の半分は倉山田石川麻呂かもと書きましたが、そうじゃなさそうです。

小林惠子(やすこ)説によりますと、サマルカンド王の妹が嫁いだ西突厥(とっけつ)の王である達頭(タルドゥ)こそが、シルクロードをユーラシア大陸の果てまで来て、ついには聖徳太子として描かれることになった人の正体なのだそうです。
けど、ほとんどの日本人は歪んだ歴史に毒されちゃってて、ちゃんと考えることもできないし、本気で調べようともしないので、こんな話は受け入れられないっすよね。うん、無理でしょう。