糺日本書紀 part22

ヤマトタケルは、父の景行天皇から日本各地の平定を命じられ、西(九州や山陰)へ行っては熊襲タケルや出雲タケルを騙し討ちで征伐しています。
戦法としては卑怯極まりないので史実ではないでしょうし、ヤマトタケルを貶めるための悪意さえ感じる内容ですので、ヤマトタケルの血筋は列島にとって簒奪者だったのでしょう。
西から帰って来てもすぐに東(関東や東北)への遠征を命じられたヤマトタケルは父(景行天皇)を恨んでおり、倭姫に泣いてこのように訴えています。
「天皇はボクが死んでしまえばいいと思っているのか。そうとしか思えない!」って。

この話、どこまでが史実なのでしょうか?
近年までヤマトタケルは架空の人物か、あるいは複数の人物をヤマトタケルとしてまとめたものだと考えてまして、数霊シリーズにもそう書いてます。

けど撤回します。
ヤマトタケルの名で表されている人物は実在していました。
それが慕容シュン(儁)なる人物であり、彼は前燕国の第3代国王として中国の歴史に名が刻まれています。
父は慕容コウで、前燕国の第2代国王なんですが、慕容コウは跡継ぎに長男のシュンではなく他の息子を望んでいたため、シュンには倭国各地(というよりも列島各地。列島とはもちろん日本列島のこと)の支配を無理やり命じているんです。
というのも王である慕容コウは、息子シュンに列島支配を命じる前から列島各地を支配下に置くために何度か来日しているんけど、抵抗勢力があってそれが叶わなかった。
そこで前燕の王であるコウが太子シュンに列島平定を命じたことが、古事記や日本書紀ではヤマトタケルが父の景行天皇から無理難題を押し付けられて西へ東へと戦いの旅に出されたことになっているというわけです。
前燕王コウにとっては、列島支配がうまくいけば願ったり叶ったりだし、万が一にもシュンが死んでしまったらそれはそれで良かったのでしょう。お気に入りの息子を次の国王にできるし。
なのでシュンは父コウを恨んでいて、「王はボクなんか死んでもいいと思っているに違いない!」と考えており、そういった点で古事記や日本書紀は人物名や状況を変えて史実を残しているとも言えるわけです。

んー、なかなか憎ったらしいことをしてくれるもんだ。
古事記や日本書紀では景行天皇もヤマトタケルと同じようなコースを巡行してますが、それは慕容シュン=ヤマトタケルの行程をダブらせて書いてるだけの話ですので、歴史上の景行天皇時代というのは慕容シュンが活躍していた時代のことです。

シュンが立太子したのは335年。現代の日本で言えば皇太子になったわけです。ところが翌336年から10年間ほど中国の歴史から消えてしまっています。
そしてその時期、列島に突然現れて大活躍したのがヤマトタケルでして、ヤマトタケルは30歳で死んだことになってます。そして白鳥になって飛び立って行った。
これは大陸へ帰ったことを表していて、おそらく345~346年ごろのことでしょう。
その後、ヤマトタケルである慕容シュンは第3代の前燕王に即位してます。
これらを徹底的に調べた小林惠子(やすこ)さんが導き出した説でした。スゴい!