糺日本書紀 part23

日本に仏教が伝来したとされるのは538年説と552年説がありまして、どちらかといえば538年説が有力なんですが、今回は552年説の面白いお話を。
西暦552年の日本(倭国)は欽明天皇の時代でして、仏像や経典を日本に送ったのは百済の聖王(日本では聖明王)なんです。

欽明は即位してすぐの欽明元年に都を遷しているんですが、日本書紀によれば
「都を倭国の磯城郡(しきぐん)磯城嶋(しきしま)に遷す」
とあるんですよ。
これ、おかしいと思いませんか?
例えば、令和天皇が遷都をするとした場合、都を日本の岡山に遷すって言わないでしょ。
何でわざわざ”倭国の”と入れてあるのか?
それは欽明天皇は百済からやって来た聖王その人だからでして、日本で聖王は聖明王になってます。聖王の名に欽明の”明”を入れたんでしょう。
ということは、倭国に仏像を贈ったの欽明(聖王)で、受け取ったのも欽明本人ってことです。

百済の歴史書「百済本紀」で、聖王は541年の途中から548年まで消えてます。
なのに不思議や不思議もアラ不思議。日本書紀にはその間の聖王の行動が細かく記載されているんですよ。
つまり、百済の聖王はその時期、倭国で欽明天皇として即位していて、その後百済に戻ったんですね。あるいは行き来していたのかもしれません。
そう、百済の聖王と日本の欽明天皇は同一人物でした。これ、間違いなさそうです。

その証拠に、日本書紀で欽明朝の前半は欽明と聖王がいっしょくたになってまして、しかも百済の聖王が欽明の代弁をしているため、欽明が登場しないんです。おっかしな話!
なんで日本の歴史書でいつまでも百済の王が日本の天皇の代弁をするんだってこと。でもって、欽明本人はどこへ行ったんだ?
その答え。
それは百済の聖王と倭国の欽明天皇は同一人物だからです。

笑ってしまうのが、日本書紀で蘇我稲目(そがのいなめ)は百済の聖王が死んだことで、今後はどうやって倭国を治めようかって嘆いているんです。
あのですね、よその国の王様が死んだからといって、倭国を治めるのに何がそれほど困るんでしょうか?
もうお判りですね。百済の聖王が死んだということは、倭国の欽明天皇が没したからであり、日本書紀は百済の聖王が倭国の欽明天皇を兼ねていたことを知らせてくれてるんですね。
これも小林惠子説でして、ホント恐れ入ります。

百済や新羅や高句麗の王が倭国でも王(天皇)を兼ねていたり、百済王が国を追い出されて倭国の天皇になったり、あるいは倭国の天皇が新羅へ行って王になったりと、他にもそんな例はたくさんあります。
応神も仁徳も履中も、允恭も継体も宣化も、敏達も舒明も孝徳も、あぁ…………キリがないのでまたpart24で。