糺日本書紀 part2

てえへんだ、てえへんだ、底辺×高さ÷2だ。
天智天皇って日本書紀に書かれてるように、本当に畿内に来ていたのだろうか?
けど、その前に。

<遠賀開闢 第1弾"宵祭り">の翌日、遠賀のレディースクリニックにて仙骨をゆるめたことが良かったのか?無事に普通分娩で生まれた”ことちゃん”が3158グラムでした。
その翌日は名古屋の自宅で「諏訪古事記」のゲラの最終チェックしていて気づいたのが、言納(ことちゃん)が出産したタケルが3158グラムになっていることで、マジっすか!
その場面は第1章に出てくるので、原稿を書いたのは半年以上前のことです。
んー、どうしたもんか。

翌月の整体教室でもクリニックの手前ですれ違ったメルセデスが31-58だったので、こうなると「3158」についてを”サイコーや”とか”最後や”などと意味付けしてる場合ではなく、この数がどう関係してくるのか?それと、カマキリ。

遠賀を調べているとナゼかカマキリが飛んで来てボクに止まるんですが、なんですかねぇ?
昔からずっと名古屋市の最果ての田舎に住んでるのでカマキリなんてどこにだっていますが、カマキリが飛んで来てボクにぶつかったり胸に止まるなんてことは今まで一度もなく、なのに遠賀では劔岳の山頂や海岸沿いでもそんなことがあり、まさかカマキリが海を渡ってきたのではないでしょうが、九州のカマキリは人懐っこいのでしょうか?
まぁ、カメムシでなくて良かった。
田舎に住んでるとカメムシは本当に困る。だからパクチーなんて絶対に食べられないし。

カマキリの言霊数は「92」。
「92」といえば福岡を表す数霊でもありますが、それを意識させたいのなら別にカマキリが何度も襲ってこなくてもいいわけで、他に何か気付くべきことがあるのでしょう。あるのでしょうか?あるのかなぁ?

うん、まったく古代史とは関係ない話になりました。
さて本題ですけども、てえへんなことになってしまいやしたぜ。
今までこんな疑問をいだいたことがなかったので、どう考えていいのか判らない状況なんですが、天智天皇って本当に畿内で大王として君臨していたのかということ。
福岡のあちこちを案内していただいているうちに、古代史の舞台が日本にはふたつずつあることが明確になり、特に天智天皇についての疑問が大きくなってまいりました。

それにヤマトタケルの父ということになっている第12代景行天皇も、モデルがいるとしても実在とは考えにくかったのですが、福岡には景行天皇の行宮があったとされる地(行橋市長尾)や、すぐ近くには椿市なる地名もあるし、仲哀(第14代天皇)トンネルだとか銅鏡を造った地の近くには鏡山があり、しかも鏡山の麓には河内王の墓まであって、んー、マジで脳ミソが破裂しそうになってきました。
この地に育っていれば、邪馬台国論争を畿内にゆずるわけにはまいりますまい。

出雲勢力に対して九州勢力を天津神とはしていますが、その九州の歴史を日本書紀は消そうとしている要素も多分にあり、まったく新しい展望が見えてきましたが、九州勢力が畿内に入って来たのなら、ナゼ畿内の卑弥呼の墓ではなかろうかと考えられている纏向(マキムク)遺跡で九州の土器が出土しないのか、そのあたりは謎です。纏向遺跡では尾張の土器が大量に出ているんですけどね。
第1次邪馬台国が九州で第2次邪馬台国が纏向遺跡を中心とした畿内のエリアならば、九州の土器が出なければおかしいのにまったく出てないんです。
ということは、九州から渡ってきたのではなく、まったく別々の勢力なのでしょうか?
んー、頭が痛い。
なので今からお酒を飲むことにします。
ありがたいことに、皆さんが全国各地の美味しい日本酒を送ってくださるので、我が家は日本酒が切れないのです。
ほんの少しだけ味見をしようと封を開けると、瓶の裏側に「開封後はなるべく早めにお召し上がりください」って書いてあるので、指示通りになるべく早く飲み干そうと頑張って飲んでます。
皆さん、いつもありがとうございます。