「遷都高天原」の原稿を書き終えた直後から、非常に強い力によってニギハヤヒ尊の探索と解明の続きが、何年ぶりかに始まってしまいました。
それでニギハヤヒ尊の母を求め、岡山県備前市の大内神社を訪ねてみました。
訳あって2週間後に再び大内神社へ行くことになったんですが、車で裏山をずーっと登って行くとメキシコや南米ペルーを思わせるような遺跡がありまして、何これスゴイですね。
ニギハヤヒ尊の母を「日之本開闢」では稲田姫として描きました。
が、その頃はまだニギハヤヒ尊の母についてがよく判っていませんでして、今になってそれを糺すよう求められているのでしょうか。
記紀神話で天火明命(アメノホアカリノミコト)の母は栲幡千千媛(たくはたちぢひめ)になっていますが、栲幡千千媛はニニギ尊の母でもあり、ニニギ尊はニギハヤヒ尊を潰すために藤原不比等らが創造したのだとすると…………いえ、それは判りませんが、ニギハヤヒ尊の母が栲幡千千媛?
すんなり受け入れる訳にはいきませんです。
それなら天火明命ではなくオオトシ神としてはどうでしょう。
オオトシの母は神大市姫(カミオオイチヒメ)で、この名前は本名ではないでしょうが、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)の母でもあるため、神大市姫をニギハヤヒ尊の母と考えた方が気持ちよく、備前市の大内神社を訪ねました。
そのわずか2週間後、再び大内神社の宮司さんとお会いしたんですが、宮司さんから資料をコピーさせていただいた後、裏山方面を車で登ること約20分。熊山遺跡の入り口に到着しました。
さらに徒歩で10分ほど登ると、ここはメキシコか、はたまたペルーかと思わせるような遺跡があって驚きです。
この遺跡、奈良時代前期に造られたとのことで、七百年代前半はちょうど古事記・日本書紀が完成した時代と重なるんですね。
遺跡に詳しい地元の研究家を紹介していただきましたので、次回はお話を伺いたいと思います。
それにしてもこんな遺跡が残っているとは、日本の歴史さえちっとも判っちゃいないことを痛感しました。
山を降り、大内神社の前を通り越した数百メートル先、老舗醤油屋さん「伏市」?の醤油ソフトクリームが美味しかったです。
やっぱり広島と岡山もニギハヤヒ尊の国だったのでしょうか。オオトシ神を祀る神社の数がものすごく多いですもんね。
あれ、それで最近は広島と岡山の仕事をたくさんいただいているのか。納得。