「遷都信濃国 vol.20」

まず初めに訂正させていただくことがあります。
このコーナーは天武天皇が遷都先にナゼ信濃国を選んだのか、その真相を探るためにスタートしました。どうして信濃の国に遷都しなきゃならないんだ、と。
ですが、天武天皇がおこなおうとしていたのは「遷都」ではなく、信濃を「陪都(ばいと)」とすることでした。信濃でバイトをするのではありません。それに天武天皇はバイトする必要などないでしょうから。

「陪都」とは?
都を1箇所だけに置くのではなく、首都以外に設けた都市が「陪都」でして、第2・第3の都のです。「陪都」はあるのかアルバイト。
天武天皇は唐の復都制に倣って、飛鳥以外にも都を置こうとしていたのです。多分たくさんのアルバイトを雇って。
ですからタイトルも「陪都信濃国」が正しいのですが、そこは変更せずにこのままいきます。

実はですね、陪都は信濃だけでなく、最初の陪都としては畿内に難波京の建設地が決定していて、信濃は2番目の陪都として調査をしていたようなんです。
陪都先に…………どうしてもバイト先に思えてしまう…………信濃を選んだ理由は推測の域でしかありませんが、いくつかの説があります。

ひとつは、東国(東日本。特に関東か?)開拓の拠点にしようとしていた説。
けどそれだけではナゼ信濃を選んだのかの理由にはならないです。
東国へ向かうのなら、その拠点が三河であっても飛騨であってもよさそうですし。

つぎに、壬申の乱で天武側に協力した信濃の功績をたたえての陪都説。
だったら陪都先は尾張か美濃にすべきですが、どうやら信濃国造の金刺氏の力が陪都先選定に働いていたようで、金刺氏といえば諏訪です。
やっぱり諏訪タケミナカタと天武天皇を結びつける何かがあるのでしょうか?
反百済・親新羅の血筋とかの何かが。

また他には、信濃の馬の確保をするために選ばれた説。
馬についてはvol.16でも触れていますが、信濃の駒(馬)はよほど優れていたのでしょう。
あるいは、大陸か朝鮮半島から海を渡ってやって来た馬のプロ集団が信濃に住み着いていたのでしょうか。

さらに、天武天皇は天文遁甲(てんもんとんこう)に通じていたので、(後に都を移す予定の)藤原京から東北に位置する信濃が五行思想において重要な方角と考えたのだとの指摘もあります。
個人的にはこの理由も信濃が陪都先に選ばれた理由に入っていると思います。

しかし、天武天皇は唐の複都制を手本に都を建設しようとしていたため、陪都先選定の理由としてはどれも満足いくものではありません。
ありませんが、他に理由が思いつかないので困りました。
しかし、いくつか挙げた説の中で深く引っ掛かっているのが、金刺氏や諏訪との関係です。
諏訪については「弥栄三次元」の原稿を書く際にいろいろ調べましたが、今までとは違った角度から諏訪を見る必要があるのでしょうか。
だから6月も7月も10月もまったく別々のグループに諏訪へ誘われたのかもしれません。
けどさ、あの巨大海老の天丼屋さんがなくなっちゃったからからなぁ…………

33ヶ月ごとに指示が出され、ほとんど強制的にやらされていた海外での神事。
2007年3月の春分はエジプトのアスワンで。
2009年12月の冬至はイスラエルのエルサレムで。
2012年9月の秋分にはトルコのタガーマハランで。
そして次の33ヶ月後ですが、2015年6月の夏至がそれに当たります。
指示されていた先はネパールとチベット。けど断りました。今年の3月に。
そしたら4月25日にネパールが…………いずれにしても行けなかった。

もう本当に海外でそんなことはやりたくなくて、だから最後は日本国内の…………戸隠か諏訪か奥美濃白山(白山中居神社)か、それとも地元東谷山の山頂あたりのどこかにしようと思っていたため、夏至にはこだわらず諏訪をじっくり調べてみます。
そうだ、曽爾村の好青年も諏訪に詳しいので協力してもらおう。
彼は諏訪の娘と結ばれたりしないのだろうか。