天武天皇が信濃国を陪都先に選んだ理由が少しずつですが見えてきました。
お馬さんのお話しです。
長野県では馬のお墓がたくさん発見されています。それだけ馬の生産が盛んであり、同時に馬を大切にしていたのでしょう。
5世紀ごろの馬はとても小さく、体高は1メートル30センチほどしかない中型馬で、その遺伝子を受け継いでいるのが現在の木曽馬(背が低くてずんぐりむっくりした体格)であろうと考えられています。
木曾御嶽山の麓には木曽馬の牧場があり、背に乗って散歩することができますが、古代の人たちもそうしていたのでしょうか?
また、馬具が古墳の副葬品として、群馬県・静岡県・福岡県と並んで長野県からも多数出土しています。
延喜式による823年(「遷都信濃国 vol.23」などで927年編修の延喜式としましたが訂正します)の記載に、国営の御牧(牧場)32箇所のうち16箇所が信濃に置かれたと記されていますが、他は武蔵(東京・埼玉・神奈川の一部)4箇所・甲斐(山梨)3箇所・上野(群馬)9箇所となっています。
馬を育てるには一日に30~50グラムの塩が必要らしいのですが、御牧が置かれた地域は内陸部が多いことに気付きます。
やはり海沿いで作られた塩を家畜の背にのせてに運ばせたのでしょうか。
いえいえ信濃の場合、塩分濃度が海水に比べると10%~30%程度の源泉や湧き水がたくさん見つかっていて、どうやら塩分濃度の高い水を馬に与えていたようです。
そのほうが山奥まで塩を運ぶよりコストが安かったのでしょう。
さて、天武天皇と馬についてですが、釋日本紀の天武元年(672)に「科野(信濃)兵は大海軍と合流すべく国司とともに神坂峠を下り、東山軍として勝敗を左右するほどに活躍した」と記されています。科野の兵は馬に乗って駆けつけたのでしょう。
また日本書紀の天武14年(685)10月には「信濃国に行宮を造らしめ、東国の温泉に幸せんと擬す」とあり、陪都先に信濃国を選ぶほど天武天皇にとっては信濃国が重要であったようです。
それで天武天皇が、行宮を置こうとした温泉が「束間(つかま)の湯」であり、それは現在の松本市郊外にある浅間温泉であろうと考えられているわけです。
と、ここまで書いてナンですが、西山博士からいただいた資料は出版前の原稿をコピーしたものなので、これ以上の抜粋的行為は慎むことにします。
ですから話を諏訪の地に戻しまして、諏訪(正確には茅野市宮川)の守矢史料館でお聞きしたところ、またいろいろと見えてきました。
そしてもちろんタケミナカタも実在であると考えられています。
考古学の学芸員さんは古墳がないことでタケミナカタの存在を否定されてましたが、それだけでタケミナカタの存在がなかったと言い切るのは納得いきません。
諏訪の上社(前宮と本宮)は守矢氏が、下社(春宮と秋宮)は金刺氏が祝(はふり)を努めていますが、守矢氏は反朝廷の立場であり、金刺氏は朝廷側に立っていたとも聞きました。これも面白い話だ。
ところで上社の守矢氏と物部守屋に接点はないのでしょうか。
それも守矢資料館で聞いてみたところ、物部守屋の次男が諏訪の守矢家へ婿入りし、守矢家第27代の祝を務めたとのことです。しかも資料館のすぐ奥に古墳がありました。
えっ、ちょっと待ってください。
物部守屋は物部氏14代目の世代に当たります。
一方で物部守屋の次男は婿入り先の守矢家27代目の祝を務めたのだと。
もしそうだとしたら物部氏よりも守矢氏の方がずっと古いことになり、面白いけど厄介な話になってきました。
というのも、物部氏の始祖はニギハヤヒ尊ということになっています。
ニギハヤヒから数えた場合は15代目の世代が守屋氏で、守屋氏の次男は16代目のと同じ世代。
なのに守屋の次男が婿入りした守矢家では27代目ということなので、もし1代1代の年数に大きな差がなければ、諏訪の守矢氏はニギハヤヒ尊よりも古く、だったらタケミナカタはいつの時代の人なのさ。
ちょっとマズいので、近々ちゃんと取材してきます。
写真1枚目は守矢資料館で、2枚目は資料館の敷地内にあるミサグチ社。