「諏訪古事記 その1」

タケミナカタは実在した人物なのでしょうか?
というのも、出雲から追われて諏訪の地へ逃げてきた(ことになっている)タケミナカタの名前は古事記にしか見られず、日本書紀には出てきません。
これは、日本書紀が意図的にタケミナカタの存在を排除したからなのか、古事記がありもしない話を何かの象徴として書き入れたからのか?

古事記にしたって712年に完成した(ことになっている)初版?に最初からタケミナカタが登場していたのか、後になってタケミナカタの話を挿入したのかも判りません。
というのもタケミナカタの父とされる大国主命の系譜にタケミナカタは入っておらず、そうなるとやはり後からタケミナカタを作り上げて古事記に挿入したのか、それとも系譜を改ざんしてタケミナカタを排除したのか、それも謎です。

けどまぁ個人的にはタケミナカタが実在した人物であったとしても、彼が大国主命の子であるとは思ってませんし、大国主命自体が初期のころの出雲国造数代を合体させて一人(大国主命)としているかもしれず、けど今は出雲の話じゃないので舞台を諏訪に戻します。

タケミナカタ以前の諏訪にも確実に神々が存在しており、諏訪においてのタケミナカタはむしろ新参者といってもいいほどです。
まず想い浮かぶのが手長・足長でしょうか。
そしてミシャグチ神に洩矢神。
おそらく縄文時代や弥生時代から崇拝されていたであろう古き神々であり、ミシャグチ神は弥生時代後期に確立したであろう原始信仰と考えられています。
数霊シリーズ「弥栄三次元」か「ヱビス開国」のどちらかでミシャグチ神を”ミ・イサク・チ”と解釈する説を紹介しました。
諏訪の場合、御柱や相撲神事がイスラエルと結び付けられた解釈もあるため、”ミ・イサク・チ”もイサクが出てきて説としては面白いです。
“ミ”と”チ”については神や人のタマシイを表す言霊でもあるため、イサクと結び付けてミシャグチになったんだと。
「ヱビス開国」には手長・足長の神が”ミ吉”と”チ助”の名前で出てきますが、そんな意味を込めてあるんです。
ですが、考古学的な見地からすれば、やはり弥生時代の原始信仰と考えるべきかもしれません。

また、タケミナカタがタケミナカタの名前になる以前、もし本当にタケミナカタが出雲からやって来たとしても、出雲時代の名前は御穂須須美(ミホススミ)命です。
タケミナカタの名前ともなると、出雲国の中で唯一タケミナカタの伝承が残るのは斐川町の鳥屋神社だけらしく、奥出雲の建御名方神社さえも元は王子権現を後に改称したものと判明しています。

諏訪においても諏訪神社(諏訪大社)は平安時代の延喜式ですと南方刀美(ミナカタトミ)神社になっていまして、そのころからタケミナカタの名前が存在していたのか、どうなんでしょうね。
ある神社の宮司さんによれば、タケミナカタは武田家(信玄の父の信虎か?)が持ち込んだとおっしゃってて、てぇへんだぁてぇへんだぁ、底辺×高さ÷2だ!

とはいえ、”ちはやふる古代史研究会”としましてはタケミナカタの前にミシャグチ神と御柱(おんばしら)についてを解明したいので、まずは諏訪南インター近くの御射山社・神戸八幡社・井戸尻考古館と井戸尻歴史民俗資料館等へ行き、なおかつスワニミズム(スワ・アニミズム)事務所なども訪ねてみます。

2008年8月26日に諏訪大社の前宮で「和睦の祭典」をおこないまして、150人ぐらいが参加してくださいましたが、8月26日って御射山祭の日だったんですね。
何の意図もなしに「和睦の祭典」はその日に決まったんですが、8月26日は諏訪大社本宮から国常立(クニトコタチ)尊を乗せた神輿が御射山社に向かう日でした。
国常立尊は御射山社で2泊してから諏訪大社本宮へお帰りになるそうですが、タケミナカタは27日の日帰りなんですって。
なんだかメチャクチャ面白い話で、ナゼそうなったのか、ナニを意味するのか、まずはそのあたりを探ってみます。