「諏訪古事記 その10」

古事記でタケミナカタはタケミカヅチに追われて出雲から諏訪へやって来たことになっていますが、そもそもタケミカヅチって誰なんでしょうか?
タケミカヅチが御祭神の鹿島神宮は諏訪大社の上社(前宮・本宮)から真東にあり、どちらも北緯35度58分~59分あたりです。
1分のズレは地表で1850メートルほどですので、約230㎞の距離と神社創建の時代を考えれば、見事な真東といっても差し支えないでしょう。

鹿島神宮のタケミカヅチはフツノミタマノ剣の神格化でもあるわけですが、フツヌシを祀る香取神宮と鹿島神宮がセットになったのは藤原(中臣)氏による企てです。
天皇家の祖先を祀った(ことになっている)伊勢の内宮・外宮に倣い、自分たちの血筋を神格化するため、鹿島・香取を利用して同じことをしたかったのでしょう。

タケミナカタ側から歴史を追っていくとついついタケミカヅチを敵視してしまいますが、これがとんでもない誤解でして、見事に不比等君以下藤原(中臣)氏の術中にはまってしまいます。

鹿島も香取も元々は地元で大切にされてきた土着の神でした。
ところがややこしいことに、鹿島の場合『建甕槌(タケミカヅチ)』だった神の名を藤原(中臣)氏は『建御雷(タケミカヅチ)』にしてしまったようです。
字が違うだけで発音は同じなので大したことはなさそうに思えますけど、これは端的に言うと藤原(中臣)氏が土着の神を乗っ取ったわけです。
それで鹿島の神を藤原(中臣)氏は自分たちの氏神として創作し、日本書紀に記したのだと。
春日大社の御祭神もタケミカヅチですが、鎌倉時代から伝わる「古社記」によれば、神護景雲2年(768年)に藤原北家の氏神として常陸国鹿島神宮から迎えられたとあるため、すでにこのころから藤原(中臣)氏は鹿島の神を乗っ取っていたわけです。
藤原北家は不比等の次男である房前(ふささき)が初代になります。

別の資料によりますと、不比等の三男の宇合(うまかい)は「常陸国風土記」で鹿島の神を我が氏神としようと試みるも失敗したともありますが、しかしまぁいずれにせよ鹿島神の乗っ取りは不比等や不比等の子供たちの仕業であることは間違いなさそうです。

そして鹿島神宮を祀る立場の斎主としたのが香取神宮ですので、香取は鹿島よりも格下に置かれています。
香取神宮としての立場は伊勢神宮の外宮に当たりまして、内宮は鹿島神宮なわけですのでこれは結局、伊勢の内宮で天皇家の祖先を祀るのと同じように鹿島神宮で藤原(中臣)氏の祖先を祀り、我が血筋は神に選ばれし者なるぞと、日本の覇者としての正当性を求めたのでしょう。
そこまで必死になるのは藤原(中臣)氏が渡来人であるからこそですが、藤原(中臣)氏だけでなく天智系(おそらく百済)も天武系(高句麗とも新羅とも)も秦氏(おそらく任那の加耶)も東漢氏(おそらく任那の安羅)もみーんな渡来人なんだからいいんだけどね、別にそんなことは。
とにかく、鹿島神宮と香取神宮をセットで考えるようになったのは、藤原(中臣)氏が両神宮の祭祀権を掌握し、春日大社に御祭神を遷幸させてからということです。
なんですが、この問題は他にも物部氏との関係など複雑な要素が多々ありますのでここではこれ以上は深入りしないことにして、とにかく諏訪のタケミナカタと鹿島のタケミカヅチを敵同士と考える必要はなかったというわけです。
そういった意味に限れば旧約聖書と同じで古事記も争いの芽を生みます。
とはいえ、タケミナカタとタケミカヅチの争いは古事記だけの記述であって日本書紀には出てきませんが、古事記にしたって最初からその話が書かれていた可能性は低く、個人的には出雲の国譲り自体もまったく信用していません。
それにタケミナカタは大国主の子としながらも大国主の神統譜にタケミナカタの名前は出てこず、現代で言えば県知事の子供の名前が戸籍にないのと同じであって、これは元から大国主にタケミナカタなどという子供はいなかったので…………そもそも大国主が誰かも判らない………後になってから古事記に挿入された説話なのでしょう。
親新羅派の古事記は712年に、親百済派の日本書紀は720年に完成したことになっていますが、日本書紀完成後にそれを読んだ親新羅派の連中が古事記を書き換えたのかもしれません。
諏訪と鹿島・香取を結ぶ何かをしようか、必要なら考えてみます。