「諏訪古事記 その14」

今回のテーマは薙鎌です。”なぎがま”と読みます。
諏訪では御柱大祭におけるいくつかの神事で薙鎌を使いますが、薙鎌は一般的に風を鎮めるための道具でして、諏訪以外でもその風習は残っています。
諏訪の場合、秋の台風シーズンになると薙鎌を木の棒に打ち付けて屋根の一角に立てたり、風の強い日には竿の先に結び付けて軒先に立てたりしました。
法隆寺の五重塔にもてっぺん近く(九輪と呼びます)に4本のカマが打ち付けてあり、それも風鎮めのためだとか。
ですが諏訪においての薙鎌は風鎮めのためだけの道具ではありませんで、それがあまりにも謎なので茅野市の薙鎌職人さんを訪ねました。信州鋸(のこぎり)の職人さんなんですが、諏訪地方では2人しか残っておらず、迷惑を承知で工房へ押し掛けまして……………

電撃訪問なので追い返されるかと思いきや市役所からの口添えは効果絶大で、ものすごく親切に迎え入れてくださり、唯一の残された実物も見せていただきました。
この薙鎌、現在では諏訪大社が登録商標を取っているため、職人さんといえども勝手に作ることは許されないそうで、そんな話を聞くと商標とはわずかにデザインを変えて注文してやりたくなります。っていうか、してやろ。

1991年(平成3)に薙鎌の原寸図が発見されました。明治17年のものです。
それで翌年1992年が6年ごとにおこなわれる御柱大祭の年でしたので、茅野市玉川の山田地区に残る鋸鍛治衆「金山講」に諏訪大社が製作を依頼しまして、それまでとは形が異なっていたため、明治17年の形を継承していこうと「薙鎌の会」が結成されました。
そのボスが鋸職人の両角(もろずみ)氏で、電撃訪問にもかかわらずいろいろと興味深い話をお聞かせくださいました。
それで、両角氏の工房に飾られていたのが、1992年の御柱大祭用に製作された薙鎌の予備(写真)で、諏訪大社の外部では残された唯一の薙鎌です。

諏訪大社上社(前宮・本宮)では、御柱大祭の2年前から森の中で御柱用の大木に目星を付ける”仮見立て”をおこない、大祭前年に”本見立て”で御柱を決定します。
そして本見立てで御柱に決まったモミの大木8本には薙鎌が打ち込まれ、それはこのモミがやがて”神となる”ことを示すシルシになるのだと。
♪モミの大木
里にくだりて神となる

長野県北安曇郡の白馬村は1998年の長野オリンピックでジャンプやアルペンスキー競技の舞台になりましたが、白馬村のさらに奥に位置する小谷(おたり)村は新潟県との県境にあり、その先は翡翠の産地として有名な糸魚川(いといがわ)市になります。
タケミナカタの母神ヌナカワ姫は糸魚川の出身ということになっていますね。
それで、新潟県と長野県の境にある諏訪神社と小倉明神社では6年ごとに交代で、御柱大祭の前年に境内の御神木に薙鎌を打ち込む神事があり、その御神木はかつて打ち込まれた薙鎌を飲み込みつつ今なお成長しています。
なぜそんな辺鄙な山の中の神社に薙鎌を打ち込むのでしょう?
一般的な解釈としては越(新潟県)と信濃(長野県)の境をはっきりさせて、ここまでが諏訪大社の管轄地であるこをと示していると考えられていますが、だったらナゼ他の地域でもそれをしないのかが疑問ですし、少なくとも風を鎮めるための儀式ではないでしょう。

また、上社では鹿の頭を山の神に奉納する御頭祭や、御柱大祭で”御柱迎えのお舟行列”でも薙鎌が見られます。
これも風鎮めのためとは考えにくく、いったい諏訪において薙鎌とはどんな存在なのでしょう。
今回の御柱大祭では諏訪大社から薙鎌の会に39体の注文があったそうです。

両角氏の工房で実物を見せていただきましたがその姿はとても可愛くて、パンクかヘヴィメタルのヒヨコみたいですが、正体は判りません。キツツキ説とか、いやいや元は蛇だった説とかはあります。けど判らないんです。
何で”目(のような穴)”があるかも判らないとのことですので、深田バージョン薙鎌を注文して、完成したら自分の頭に打ち付けて考えてみたいと思います。

○写真1:薙鎌の全体像。実際には尻尾の下の出っ張り(黒い長方形部分)はカットします。
○写真2:頭部?のアップ。ウルトラセブンにやっつけられた怪獣ダンカンに似ていますよね。
○写真3:すべての薙鎌には銘が刻まれまして、これには平成四年の刻印が読み取れます。

2016/ 7/ 4 10:59

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