「諏訪古事記 その16」

アイヌとオタリ村(長野県北安曇郡小谷村)が結びつき、他にも調べなければならないことがあるため久しぶりに白馬村・小谷村方面へ行ってきます。
そして今回は県境を越えて翡翠の産地新潟県の糸魚川へも。タケミナカタの母であるヌナカワヒメのお里ですが、翡翠を産出する姫川の古名は”ヌナ川”といい、だとするとタケミナカタの母がヌナカワヒメなのではなく、タケミナカタの生まれた地がヌナ川(糸魚川)近辺なのかもしれないですね。

すると出雲はどうなるんだと疑問がわきますが、諏訪入りしたアイヌ人は日本海側から来たとも考えられるため、当然のこと日本海側には他の地域にもアイヌ人が暮らしていたとしても不思議ではありません。

注1)歴史上、アイヌ文化時代は鎌倉時代から始まっていますが、アイヌ人が鎌倉時代に突然発生したのではなく、縄文時代からアイヌ語を話す民族がいたため、その人たちを縄文アイヌ語民族と呼ぶことにします。

縄文時代から出雲には糸魚川の翡翠が運ばれていたので、だからでしょうか、山陰地方にはアイヌ語っぽい地名が残っていて、例えば出雲の”ウップルイ”とか松江の”エトロ”とか。エトロなんて北方領土のエトロフ島を思い出さずにはいられません。
他にも”アダカエ”とか”アビレ”なんていう地名もありますが、これらの名前は古代韓国語が元になっているのかもしれないため、検証が必要ですけども。

アイヌ語でも馬は”ウマ”です。これは日本語の”馬”をアイヌ人が取り入れたようで、つまり馬は本州から北海道に持ち込まれたというわけですね。
ただしアイヌ語は北海道の中でもそれぞれ方言がありまして、北海道の太平洋側では”ウンマ”と発音し、日本海側やオホーツク海側、さらにはサハリンでは”ウマ”とか”ンマ”とか”ウーマ”と呼んでいたとのこと。
ここで注目するのは太平洋側の”ウンマ”です。「アイヌと縄文(瀬川拓郎著・ちくま新書)」によれば、日本語の方言で馬を”うんま”と発音するのは群馬県と長野県の一部、そして瀬戸内海のごく一部だけで、道東の太平洋側へ馬を運んだのは古墳時代から馬の生産拠点であった長野県や群馬県から東北・北海道へ進出した人ではなかろうかとのことです。オモシロッ。
長野県の天竜川沿いでは5世紀中頃~後半にかけての馬のお墓が28基も確認されていますし、823年に編纂された「延喜式」によれば全国に32箇所設置された公営の御牧(馬の牧場)のうち半分の16箇所が信濃国(長野県)に、9箇所が上野国(群馬県)に置かれていて、全体の約8割が長野県と群馬県じゃんか。そもそも群馬県なんて名前からして”馬が群れる国”だし。

さて、出雲が悪い人たちに国を奪われてからは諏訪が縄文アイヌ語民族が暮らす最西端の地だったのかもしれません。そして彼らは弥生文化の流入を拒んでいました。
ヤマト朝廷は諏訪を支配することで東国(関東や東北などの東日本)へ侵入する前線基地にしたかったのでしょう。
天武天皇が副都心(陪都)に信濃国を選んだのは優れた馬を確保のためでもあるでしょうが、まつろわぬ者ども(エミシ・縄文アイヌ語民族)が暮らす諏訪を支配し、さらには東国を配下に置く足掛かりにするためにまずは諏訪を制圧することだと。
しかし諏訪にヘタな手出しをすると東国の”まつろわぬ者ども”がうるさいため、まず諏訪のエミシまたは縄文アイヌ語民族を手なずけたい。そのためには諏訪の近くに拠点が必要ですが、諏訪から南西の伊那地方はすでに諏訪軍団の管轄で近づけません。ですから諏訪の北西に位置する松本あたりを狙い、685年には行宮(あんぐう)を「束間の湯」に設置しました。
「束間の湯」がどこであるかは特定できませんが、松本周辺の浅間温泉と美ヶ原温泉がその候補地にあがっています。
ですが浅間温泉にしろ美ヶ原温泉にしろ今ひとつパッとする温泉ではないし、東国を攻めるための戦略的重要拠点でもなさそうで、そのあたりは「遷都信濃国」(vol.1~31まで連載。その後は諏訪古事記に移行)に書きました。

しかし天武天皇は翌年686年に亡くなり、その後は持統天皇(ここでは持統が実は男であるとか、持統の正体が高市皇子であるとかは論じないようにします。話に収拾がつかなくなるので)と藤原不比等の時代になりますが、702年に持統が崩御し、さらに720年の5月に「日本書紀」が完成した3ヶ月後に不比等が死んだことになってます。
そこで実権を握ったのが長屋王でして、721年1月のことでした。ひょっとしたら長屋王は即位していたかもしれませんね。アカデミズムは完全否定するでしょうけど。
そして長屋王が実権を握ってからわずか5ヶ月後の6月26日に、ナント諏訪地域は信濃国から独立して諏訪国が成立してしまいました。
何でやねん。
続く。