天武天皇の正体が高句麗の蓋蘇文(がいそぶん)である可能性は否定してませんが、かといって納得できることばかりではありません。
そこで、埼玉県日高市に鎮座する高麗(こま)神社の高麗文康宮司に尋ねてみました。
というのも高麗家の第60代目当主である高麗宮司の著書「高麗王 若光物語」はフィクションですが、史実に基づいたであろう内容の超問題点が見事に描かれているからです。
以前、参拝に伺ったときは年に一度の例大祭当日でお忙しそうでしたし、かといって名古屋からは遠いのでその後は行くことができず、それで電話してみたところ親切に答えてくださいました。
で、その超問題点なんですが、660年に百済が新羅・唐連合に滅ぼされ(といっても王室が崩壊しただけで、国民が壊滅的な被害を受けたわけではないので地方の勢力は温存されていた)、それから間もない668年に今度は高句麗が唐によって滅ぼされてしまいましたが、その発端となったのが……………
高句麗滅亡の発端となったのが蓋蘇文の長男(ということになっている)男生が唐へ寝返ったからなんです。
高句麗にいる蓋蘇文の3人の息子とは、長男の男生(だんしょう・ナムセン)、次男の男建、三男の男産ということになっていて、母親が同じなのかは確認できてませんが、とにかく長男の男生と次男の男建による王位争いは激しかったようです。
しかし、いくら兄弟が憎しみ合ったとしても祖国を裏切って敵国に寝返り、さらにはその敵国である唐の大将軍として愛しき祖国を滅ぼすとは何事ぞってことなんですが、実際に唐軍は男生の軍隊と合流して高句麗と戦っています。
それで次男の男建や三男の男産は唐軍に降伏して唐の首都である長安に連行されるんですが、三男の男産は早くに抵抗を止めて降伏したため、唐からは司宰少卿(しさいしょうけい)なるものに任ぜられています。
一方、次男の男建は降伏が遅かったとの理由で唐の地方へ配置されたことになってます。配置されたということは殺されずに済んだのでしょうが、次男が三男のように優遇されなかったのは、次男と激しく敵対する長男の意向があったのかもしれません。
彼らの父蓋蘇文は独裁者だったようですがそれでも高句麗を護るため、幾度となく繰り返される唐からの攻撃に莫離支王として命を懸けて戦ってきたはず。
それを事もあろうに莫離支王蓋蘇文の長男たる男生が、敵国である唐と組んで祖国高句麗を滅ぼしてしまったとは。
古事記神話で国を譲れと迫られ、”はい、判りました”とすんなり国を明け渡そうとした大国主や事代主の物語よりも酷いね。
しかも神話は勝者の身勝手な作り話だけど、男生の裏切りは史実のようなので、そうなると蓋蘇文が海を渡って天武天皇になったということに疑問が出てきます。
というのも、唐は天武天皇が大っ嫌いで、絶対に天武天皇を認めなかったんです。
息子が唐の大将軍なんだから、天武天皇の正体が蓋蘇文なら唐となんらかの和合があってもよさそうなもんですよね。
ところが唐は天武天皇を決して容認してないんです。
それもそのはず、668年に滅ぼされたと教えられてきた高句麗ですが、実は滅んだわけではなかったんです。
えっ!
続く。