天智・天武の両天皇の正体については調べるほどにワケが判らなくなり、判っていることは残された文献に史実はない、ということだけでしょうか。
なので今回は目先を変えて古代の道”東山道(とうさんどう)”についてです。
中でも美濃と信濃を隔てる難所”神坂(みさか)峠”については以前から疑問に思っていたことがあり、それがこのたび現地の研究者らに取材してやっと謎が解けました。
古代に整備された七つの官道、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道を道の名前と思ってましたが、行政区のことでして、その行政区を貫く街道が今はそのまま道の名前として呼ばれているわけだったんですね。
官道には大路・中路・小路とランク付け?がなされていまして、大路とされるものは京の都と大宰府を結ぶ山陽道のみ。当時、もっとも重要な街道だったのでしょう。
今回注目する東山道は東海道とともに中路に区分され、他はすべて小路になっています。
今や東山道の名前を知る人は少なく、一方で東海道の名前は誰でもご存じでしょう。東海道五十三次、東海道新幹線。東名・名神高速道路も東海道です。
現代では圧倒的な違いがある東山道と東海道ですが、これらが整備された当時は東山道の方が重要でして、京の都から近江、美濃、信濃、そして北関東を経て陸奥、出羽に至る全長1000㎞におよぶ街道が東山道です。
征夷大将軍の坂上田村麻呂が東国へ向かったのも東山道ですし、奈良の大仏に使う黄金を東国から運んだのも東山道でした。
さてさて、東山道についての疑問ですが、美濃(岐阜県中津川市)と信濃(長野県阿智村)を結ぶ神坂峠は東山道の中でも最大の難所なんです。
そびえ立つ恵那山の東側を抜ける険しい神坂峠では古代の祭祀跡が大量に見つかり、それは旅の安全祈願だったことからして、当時の人々は苦労してこの峠を往き来していたのでしょう。
ところがです。なにもこんな険しい神坂峠を越えなくても、神坂峠の南側には木曽川が流れていて、川に沿って北上すれば信濃(長野県塩尻市)に至るんです。
その街道こそが木曽路なんですが、東山道が整備されたころ、まだ木曽路は今でいう幹線道路ではありませんでした。
ですが、木曽路の上松町では縄文遺跡から栗の実やそのカケラが876個も出土しており、年代測定の結果1万3000年前のものと判りました。
13000年前って、縄文の草創期もいいとこ、ほとんど旧石器時代から縄文時代に移行した時期ですし、諏訪で産出した黒曜石も見つかっているので、太古の昔から人々は木曽路を往来していたことに間違いありません。
だったらなんでわざわざ険しく危険な神坂峠を抜ける街道を整備したのか?
どう考えたって木曽路を行ったほうが危険も少ないし楽じゃん。
と、以前から思っていたわけで、木曽路側では地元の人に聞き取りをしてますけど、納得できる答えには出会えませんでした。
そこで阿智村へ出向いた訳なんですが、阿智村にも古代史バカと呼ばれる先生がいらっしゃいまして、とても勉強になりました。
官道というものは、とにかく真っ直ぐに最短距離で目的地に行くことが求められたため、木曾川沿いの木曽路はそれが不可能だったのだと。
川沿いに細い道を整備しても大雨でいちいち崩れたりするし、なによりも川の両岸が切り立った斜面なので、広い道路ができない。
たしかに。島崎藤村の「夜明け前」も出だしは、”木曽路はすべて山の中である”から始まっているし。
それに比べ、東山道は美濃から険しい神坂峠を越えて信濃側の伊奈谷に出れば、ズバーンと直線道路の整備が可能な平地が天竜川沿いに広がっています。
なるほど。それで神坂峠は険しけれども、伊奈谷に出てしまえばあとは平坦な道がしばらくは続いたというわけですか。
東山道は現在の群馬・栃木あたりでは広いところで11~12メートルもの幅があったそうで、今でいうと片側3~4車線の主要幹線道路に匹敵しますね。
当時の人たちはホント凄いですね。
来年の春、阿智村から神坂峠越えで美濃側まで歩いてみようと思います。
古墳時代や飛鳥時代の人々が信濃の馬を大和まで運ぶのにこの峠を越えて行ったように。