糺日本書紀 part17

(架空の)大和天智とは=(実在する)藤原鎌足のことでして、鎌足がやらかしたくせに天智天皇に罪を押し付けた悪行はまだまだ他にもあります。
鎌足は蘇我入鹿や古人大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂を殺害した後の658年11月11日ポッキーの日に有間(ありま)皇子を処刑しているんですが、これまた蘇我氏が悪者にされているんです。
ありもしない有間皇子の謀反を蘇我赤兄が斉明天皇に密告したことになってますが、天智の母である斉明も飛鳥で即位していたとは考えられず、百済を追放されてから恐らくは対馬か九州筑紫にいたはずですから、有間皇子の処刑を命じたのも大和天智、つまり鎌足なのではないでしょうか。

そして大和天智がやらかしたことになっている最大の失策こそが、663年に百済救済のため2万7千の大軍を送り込んだ白村江の戦いなんですが、まず2万7千という数についてはまともに考える必要はないと思います。大げさ過ぎです。
それに百済は660年に唐と新羅によって滅ぼされているため、なぜこの期におよんで兵を出さなければいけないのか?
実在する九州天智(当時はまだ中大兄皇子)にしろ鎌足にしろ百済から倭国へ渡ってきているので祖国を想う気持ちは理解できます。
しかし百済は642年に政権が変わります。
それまで百済の王であった武王が義慈王に取って代わり、武王の皇太子たる九州天智も百済を追放されているので、果たして義慈王が支配する祖国を本気で救うつもりがあったのかどうかが疑問です。
しかし鎌足にとっては王が誰であろうと関係なく、それで実在の九州天智(中大兄皇子)を利用して白村江へ九州の兵を向かわせたのではないかと。
集められた兵は遠賀川(当時は遠賀湾)周辺の民衆だったそうです。
しかし倭軍は唐の船団に敗北したため白村江への派兵は失敗に終わりました。
失敗したのでこれも大和天智が計画および実行したことにしてありますが、何しろ九州天智は飛鳥に入ってないので、これも大和天智がやらかしたことにして鎌足が押し付けた失策ではなかろうかと考えています、今は。

645年の”乙巳(いっし)の変”および”大化の改新” ~ 672年の”壬申(じんしん)の乱”についてが書かれた歴史書は、中大兄皇子と即位後の天智天皇をすべて鎌足に置き換えて読んでみると納得することばかりですしとても面白いです。

668年になると大和天智は近江国の大津に遷都したことになってますが、大和天智は架空ですからそんなことできません。
しかし鎌足は百済人が多く暮らす大津に都を開こうとしたかもしれず、それが歴史上は大和天智による遷都になってしまっているんですが、鎌足が宮としたのは百済人の豪族から譲り受けたお屋敷を改築したものなのでしょう。実際に大津では小さな宮?らしき跡しか出てませんし。
とはいえ滋賀県の学者さんたちは、発掘すれば必ず大津宮は出ますぞ、とおっしゃるでしょうけども。
で、大津に遷都したことになっている4年間も飛鳥には当然のこと都は存在していたでしょうし、天皇たる立場の人もいたことでしょう。
けど、藤原不比等氏らがそれをすべて歴史から抹殺してしまったため、真相はいずこへ?