「考古学からの古代史」

しばらく「遷都信濃国」をお休みしていますが、決して途中で終わったわけではありません。
今までは神社伝承から古代史を推測してきましたが、ここのところ限界を感じてまして、しばらくは同じ古代史でも考古学的な見地から考えたかったので、各地の古墳や資料館、市役所の文化財保存課や教育委員会などを駆け巡っていて、それで「遷都信濃国」がほったらかしになっていた訳です。

各資料館の学者や学芸員、文化財保存課の担当者などから詳しく話を聞くことで、古代史の(古事記・日本書紀などをもとにした)神話的解釈がいかにデタラメだらけかを改めて思い知らされ、それはもう悲しいほどです。

古代史の解釈において、考古学からでは判らないことが神社伝承からは推測できますが、その逆もまた同じでして、どちらかだけでは片手落ちだとよーく判りました。

岐阜県可児市の久々利(くくり)地区と、同じく可児市の木曽川沿いにある川合地区は、直線だと6~7㎞の距離しかありません。
どちらの地区にも古墳が多数あり、埋葬品もかなりの数が出土しています。
その古墳は両地区とも同時代に造られたものであることも判っているため、おそらくは古代にも久々利地区から川合地区にかけ、いくつもの集落が寄り添って大きな文化圏ができていたのであろう…………と思ってしまいます。思うでしょう。思いませんか?

ましてやそこに神社伝承をあてはめると、これが楽しく愉快な古代史が推測されてしまうんです。
神話の中で第12代景行大王は久々利の娘を嫁にしてますし、第10代崇神大王の皇子八坂入彦は久々利にお墓があり、宮内庁の管理区域になっているため無断では2回しか入っていません。
景行大王の嫁八坂入姫は八坂入彦の娘であり、八坂入姫は第13代成務大王の母ということになっています、神話では。

なのでこの区域には大きな集合国家が形成され、地方の豪族といえども力を持っていたのだろう。
その集合国家はどれぐらいの規模で、何人ぐらいが暮らしていたんだろう。
人々は頻繁に往き来して、食料や生活道具を交換したりしていたんだろうな。
って、思ってしまいますよね。思ってください。

ところがですよ。
考古学的見地から研究する教育文化財課の田村主任(仮名)は一刀両断にこう言い放ったのだ。
「久々利地区と川合地区は交流してません」と。

ナヌッ?
何でそこまで言いきるのだ。同じ時代にこんな近くで暮らしているんですぞ。
「久々利地区の古墳は横穴墓(横穴式の古墳)なんですが、川合地区の古墳は竪穴式なんですね。それに、久々利の古墳から出土している須恵器(素焼きの陶器)は愛知県の猿投の窯で焼かれたものなんですが、川合の治郎兵衛塚(じろべえづか)古墳などから出土しているのは愛知県春日井市の窯で焼かれているんです。春日井市の二子山古墳の近くに…………」

とまぁこんな調子でして、本気でヤバいと思いました。結局、自分は何も判っちゃいなかったんだと。
なのでしばらくは神社伝承から離れ、考古学から古代史に触れてみます。

2月1日、川口数霊翌日に連れていっていただいた埼玉(さきたま)古墳群は本当に面白かったです。また行きたい。
けど次は群馬県高崎市の保渡田(ほどた)古墳群へお願いします。
あそこ、ナスカの地上絵やインチキくさいミステリーサークルよりずっとずっと気品があって芸術的ですね。

3月9日、整体の京都教室翌日には雨の中を綾部市まで走り、あこがれの私市(きさいち)円山古墳へ行きましたが、スーパーカミオカンデに匹敵するほどの衝撃があり、その美しさはまるで野外美術館です。

別の日、近江の国へも調査に行きましたが、野洲(やす)市の大岩山古墳群からは銅鐸が大量に出土してますので、銅鐸ファンなら滋賀県野洲市がよろしいかと。
日本最大の135㎝銅鐸もここから出ています。

4月には長野県千曲市の埴科(はにしな)古墳群を調べに行きたい。

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