「遷都信濃国 vol.14」

第15代応神天皇は八幡神社にて誉田別(ホンダワケ・ホムダワケ)尊の名で祀られていますが、誉田が別れた元は尾張氏の誉田真若ではなかろうか、そんなお話しをいたしました。
※”別(ワケ)”は”和気(ワケ)”とも書くため、”ワケ”が必ずしも親→子や本家→分家へ別れたことを表すわけではありませんが、ここでは父スサノヲを雷(イカズチ)、子ニギハヤヒを別雷(ワケイカズチ)との解釈に倣っています。

日本書紀によりますと、応神天皇は誉田別尊の名前を他人(?)と交換して手に入れたことになっているんです。
ときは応神天皇の太子時代で、場所は福井県敦賀市。おそらく現在の気比神宮あたりでしょう。
意味が判らないです、名前を交換したってことが。

名前を交換したというのは、何が言いたいのでしょうか?
誰かと入れ替わった?
誰かを抹殺してその相手の持つ立場を奪った?
後に歴史を編纂した者が、誰かと誰かをくっつけて一人の人物にしてしまった?

とにかく、125人の歴代天皇(実際はもっと少ない)の中で「神」の文字が入っているのは初代神武・第10代崇神・第15代応神だけですので、神武=崇神なのか神武=応神なのか、それともそうでないのか、なかなか答えが出せそうにありません。

応神は名前を交換する前の名前が「伊奢沙別命(イザサワケノミコト)」だったようです。
イザサワケ命は越前国の一ノ宮「氣比神宮」の主祭神であり、氣比神宮略記によればイザサワケ命は古代からその地に鎮まり祀られているとあるため、年代的にも詳しく調べないと”名前の交換”が何を意味しているのか理解できそうにありません。
それについては、4月に福井県の鯖江市と福井市で仕事があるためその時に調べることにして、誉田別の名前については一旦ここで閉じます。

越前は尾張と古くから深い結び付きがありまして、継体天皇に尾張目子媛(めのこひめ)が嫁いでいます。
継体天皇の出身は近江ですが、育ったのは母方の越前とされており、越前の豪族連合の代表者が継体だったのでしょう。
継体は武力で大和を征服したとみられるふしがあり、継体の前の大王(天皇)第25代武烈がむちゃくちゃな暴君として歴史に記されているのは、継体の即位を正当化する狙いがあるのかもしれません。

第26代継体の後に即位した第27代安閑(あんかん)大王…………やはり第40代天武天皇以前の呼称は”大王”にします…………と、第28代宣化大王は母親が尾張目子媛でして、この時代は尾張の血筋がかなり天皇家に入りこんでいることが判ります。
このころの尾張や美濃、近江や丹波や吉備などはかなりの勢力を持っていたのでしょう。

さてと、そろそろ話を天武天皇に戻しますが、これまでは天武天皇に好意的な歴史の解釈をしてきました。
テーマが「ナゼ天武天皇は信濃国に遷都をしようとしたのか」なので、天武天皇贔屓になるのも仕方ありません。
しかし日本書紀に記されている壬申の乱については鵜呑みにするわけにいかず、かなり天武天皇に都合よく歴史が塗り替えられてしまっているため、そこにスポットを当ててみることにします。

続く