「遷都信濃国 vol.15」

天武、その時はまだ大海人皇子ですが、壬申の乱で大海人が兵を挙げたのは、近江朝廷の大友皇子が吉野を襲うために美濃で兵を集めていると報告を受けたから、と日本書紀は記しています。
報告したのは大海人の舎人のひとりで、美濃の朴井雄君(えいのおきみ)なる男。
彼は私用で美濃へ行った際、近江朝廷が尾張・美濃の国司に命じ、天智の陵を作るために人夫を集めているが、それらに武器を持たせているのを見てしまった。見ーちゃった、見ーちゃった。

つまり近江の大友は、天智の陵を作るためとの口実で人夫を集めてはいるが、実は吉野の大海人を討つことが目的なのだと。
それを聞いた大海人はやむを得ずに、どうしてもやむを得ずに、なんともやむを得ずに兵を挙げた…………ことになっていますが、さーて本当かな?

出家を理由に近江から吉野へ逃れた大海人は、いったい何人の舎人を連れだっていたのでしょう。それほど多くないはずです。
そして吉野で大海人と共に身をひそめた身内や舎人らともなれば、せいぜい20人か30人。多く見積もったところで40人程度でしょうし、その中には鵜野讃良(うののさらら、後の持統天皇)や子どもたちも含まれて(ることになって)います。

その程度の集団を討つのなら、わざわざ尾張や美濃で人夫を集めなくても、近江朝廷の軍兵を差し向ければすむことでしょ。
吉野にひそむ大海人側の数だって情報は近江に入っているはず。
ならば精鋭部隊を大海人側の人数の3倍ぐらい準備すれば楽勝でしょうに。

大海人側にしてもそうで、やむを得ず挙兵することになったにしては、すぐにあちこちから兵が集まり、尾張からは2万もの兵が参加しています。
さすがに2万をすぐに集めたとは書けないためか、この2万の兵は近江朝廷側につくはずだったのだが、寝返って大海人側についたことになっている。
そりゃそうで、数日で2万は無理でしょう。
それに、2万は大げさすぎです。

そもそも近江の大友が、吉野の大海人を襲う準備をしていたということ自体がどうやらウソくさい。
これは日本書紀が大海人の挙兵はあくまでも「正当防衛」であり「仕方なし」なのであって、決して大海人側が仕掛けたクーデターではありませんよ、として事実をねじ曲げているのでしょう。

これまで日本書紀は親百済で反新羅の書だと散々うったえてきました。
となると、大海人は悪者に描かれていそうですが、日本書紀編纂の最高責任者は天武(大海人)の子の舎人親王のため、壬申の乱においては近江側の言い分が完全に消されているようなんです。
おそらく大友は美濃で兵を集めてはいないし、朴井雄君も美濃へ私用で出かけたりもしてないです。
それに、大海人はもっと以前からクーデターを画策し、着実に兵を集めていたと考えれば、あらゆる矛盾が解決します。

大海人は(672年)6月24日に吉野を発ち、3日後の27日には美濃の不破関(現在の関ヶ原)に至ってます。
そして7月2日には戦いが始まっていますが、実はずーっと前から大海人は美濃で挙兵の準備をすすめていたのかもしれません。見つけてしまったのです。

岐阜県七宗町の山奥にたたずむ神淵神社は、鳥居に「天王山」の額が掲げられていることからも、御祭神はスサノヲ尊だと判ります。
この神淵神社の創建は古く、672年6月に天武天皇によると伝承されています。
※神淵神社は剣のミハタラキについて「遷都高天原」325ページ~に登場。

もしこの伝承が間違ってなければの話ですが、壬申の乱は大海人側から一方的に仕掛けたクーデターということになります。
それで大海人は自分と同じ新羅系のスサノヲ尊に戦勝を祈願したのだと。

続く