「遷都信濃国 vol.23」

長野市の市立博物館で古墳を専門に研究されてる学芸員氏にボクは、閉館時間を過ぎても質問し続けていました。(迷惑な奴だ!)
そして最後にこんなことを聞いてみたんです。
「考古学の見地からですと、諏訪のタケミナカタはどのように考えていらっしゃいますか?」
「…………タケミナカタ?」
「はい、諏訪大社の御祭神です。いついつの時代の人ではなかろうかとか、神話に出てくるタケミナカタのモデルは諏訪の誰それではないかとか」

それまで熱心に話してくださっていた学芸員氏が急に冷めた目でボクを見て、あきれた顔でこう言いました。
「そんな人はいません」

「いないって…………実在ではないということですか?」
「何の証拠も残っていません」
「けど、誰それがモデルだっとか、それらしき人物がいたようだとか」
「ありえません。その時代の諏訪は取り残されています。古墳も何もありませんし。現在の群馬県あたりには王がいましたよ。長野県では伊那谷にならいたでしょうね。伊那谷といっても現在の飯田市あたりです。もちろん証拠もあります。ある時代に前方後円墳が24基も造られています。その時代にひとつの地域で前方後円墳を24基も造ることができたのは倭王朝(ヤマト朝廷のこと。学芸員氏は”ヤマト朝廷”を”倭王朝”と呼んでいた)が許可したからで、それは倭王朝に対してその地域が満足な見返りを与えることができたからです」

とまぁこんな調子でして、すべての学者がここまでタケミナカタの存在を完全否定するわけではありませんが、学芸員氏は古墳の有無や政治的な力の無さから当時の諏訪を判断されていたようです。
それにしても
「そんな人はいません」
とは…………

長野県の古代史は北部の千曲川水域と南部の天竜川水域に分かれていて、弥生時代まではそれほど交流がなかったようなんです。
住居跡の出土品からもそれが判るようで、千曲川水域と天竜川水域との交流は古墳時代になってからだそうです。

天竜川は諏訪湖から流れ出ている川ですが、諏訪の地は天竜川水域と千曲川水域との中間に位置するため、弥生時代~古墳時代にかけては中途半端な地だったようで、確かに考古学的にはタケミナカタの存在について疑問視されるのも判らないわけではありません。
ならば弥生時代以前の縄文時代を調べてみます。

タケミナカタとは(多分)関係ありませんが、千曲川水域はメチャクチャ面白く、あこがれの森将軍塚古墳へ行ってまいりました。
そして森将軍塚古墳の古墳館や、隣接する県立歴史館で学芸員にたっぷり話を聞くことができ、さらには博士まで出てきてあれこれと教えてくださいました。

復元された森将軍塚古墳も素晴らしいですが、驚いたのが大室古墳群です。
総数500基を超す古墳群で、うち400基は石を積み上げた積石塚古墳なんですが、中でも26基は石室の屋根が合掌造りになった珍しい古墳でした。
渡来系集団の集合古墳であることは間違いなさそうで、博士もそうだと認識していらっしゃいましたが、それを文章にはまだ書けないのだと。
代わりに書いておきます。大室古墳群は間違いなく朝鮮半島から渡って来た人たちのお墓です。

博士からいただいた資料は近いうちに出版される著書の原稿をコピーしたもので…………そんな大切なものを名古屋から来た怪しい男に渡していいのか?…………歴史学の博士であり県立歴史館の専門主事と上席学芸員を兼任される西山克己博士が出版予定の著書は信濃の「牧(牧場)」についての研究で、まさに天武天皇が陪都先に信濃国を選んだ理由のひとつが「牧」の存在でしょうから、なんともありがたいです。

927年編修の延喜式によれば、国営の「牧」は全国32箇所に置かれ、その内の16箇所が信濃国にあったようなので、次は「牧」について調べてみます。縄文時代の諏訪もですが。

写真1:復元された森将軍塚古墳(長野県千曲市)
写真2:大室古墳群168号墳の合掌形石室(長野県須坂市)
写真3:長野県外の復元遺跡でなんですが、日焼けの防止をしていてイスラム教の女性と間違えられた怪しい男(名古屋市在住)

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