“信州信濃のソバよりも、
あたしゃあなたのソバがいい”
この名言、タケミナカタが安曇野から戸隠にかけてを旅した際に残し、その数百年後に今度は天武天皇が飛鳥浄御原律令の制定時に引用したため現在まで受け継がれてる…………わけがないのでそんな話を信じてはいけませんが信州はソバが美味しいです。
信濃国の大国主タケミナカタは出雲での名を御穂須須美(ミホススミ)と申しまして、”御穂”は”美保”と同じに考えられています。美保神社の美保であり、美保関町の美保です。
2008年8月26日、諏訪大社の前宮で大がかりな神事をしたときのこと、祭壇に諏訪と出雲のススキが必要だったので、島根県の美保関町までススキの穂を採りに行きました。
神事の数日前、わざわざ名古屋から美保神社が鎮座する美保関町まで片道500㎞の道のりを夜中に走って。
ススキの穂
携え参れよ諏訪の地へ
長き時空の旅の果て
いよよ始まる和睦の神事
支配の連鎖 次々に
重なり合うて 今やここ
からまり合うて 四本の柱
何をかの
とじこめ合うてきたのかと
人よ判りて欲しきもの
…………(続く)
「弥栄三次元」317ページより。
美保神社へ向かって美保関町の海岸沿いを走っていると神社の3㎞ほど手前、民間の脇に県道181号線へ左折する細い道があり、峠を越えると日本海に出ます。
小さな港町のはずれには諏訪神社がありまして、地元の漁師さんがいきなりこう言いました。
「タケミナカタさんはなぁ、諏訪へ行く前にはここにおったんや」
と、地元の方言で。
「えっ」
突然ナニ?
それは実在の人物としてタケミナカタがここに暮らしていたという伝承なのか、諏訪大社の御祭神タケミナカタはここの諏訪神社から勧請されたということなのかは判りませんが、地元ならではのエピソードでした。
けどまぁそのあたりは我田引水、話し半分、いや話し8分の1ぐらいに聞いておきましょう。
やはりタケミナカタはこの地から信濃の諏訪へ渡って行ったのでしょうか?
しかし、出雲でタケミナカタに因む伝承は、ここ出雲国の東の果て美保関町以外にはほとんど残ってないようなんです。
実はタケミナカタと西出雲はあまり関係なかったりして?
タケミナカタが諏訪へ入ったことで潰された神々(先住民・土着民)がいます。
彼らは須々岐(ススキ)氏と申しまして、ですから和睦の神事にすすきの穂が必要だったのでしょうか。
この”須々岐”が”鈴木”に転訛したのだとか?
松本市内の須々岐水(すすきがわ)神社では神域でススキを育てていまして、須々岐氏は高句麗系の渡来人だったようですが、はっきりしたことは判りません。
ところでタケミナカタって本当に出雲から諏訪へ渡ってきたのでしょうか。
ひょっとしてタケミナカタは、母ヌナカワヒメと同じく越の国の糸魚川あたりが出身で、糸魚川から直接諏訪に入った。
後に再び日本海へ出て、糸魚川かその近辺から海路で出雲の美保関に向かったとは考えられないでしょうか。
そして美保関を拠点にしていたけども、西出雲までは深く関わることはなかったのか…………?
出雲にはタケミナカタの伝承があまりにも少ないので、そんなことを考えてしまいます。
では考古学ではタケミナカタをどう考えているのでしょうか。神社伝承とは違った捉え方があるはずです。
そのために信濃の国へ行ってみましょう。
ですが諏訪の地でタケミナカタはヒーローです。なのでその存在を客観的には捉えることが難しいでしょうから、諏訪から離れて信濃の国の県庁所在地長野市へまいりましょう。
長野市界隈には県立歴史館や市立博物館がありますし、長野市教育委員会の文化財課や観光課にも連絡してあります。
タケミナカタについての新説・異説はあるのでしょうか?
長野市到着。
はい、ありました。
えっ、マジっすか?
考古学ではナント…………あかん、ヤバい。もう死んじゃうかもしれない。