まずは小谷村役場では連日お世話になりまして、ありがとうございました。
薙鎌神事は諏訪大社から宮司が小谷村まで出向き、6年おきの御柱祭り前年に新潟県との県境にある社でおこないます。
薙鎌を御神木に打ち付けるのは小谷村戸土(とど)の「境の宮諏訪神社」と小谷村中股の「小倉明神社」の2社があり、毎回交代でおこなうためにそれぞれの社にとっては12年に1度の行事になります。
それでその社、両社ともとんでもない山奥にあるため役場の柴田さんから詳しく聞いておいてよかったです。役場へ寄らなければ絶対にたどり着けませんでしたし、小倉明神社に至っては一般車輌進入禁止なんですけど看板に気づかなかったことにして…………
えーっ、進入禁止の看板なんてあったかなぁ?
普段は封鎖されている山道が工事関係者のために鎖が外されていたので、これを逃すまいと進入した先は冗談抜きで危険な状況でしたが、呼び止められた関係者にはとぼけてやり過ごし、とにかく勘を頼りに選んだ獣道のような細いスジの草をかき分け、熊が出てこないかを注意しながら登った先に、小倉明神社の社と薙鎌が打ち込まれた御神木を発見しました。
☆写真1:6体の薙鎌を確認。
小倉明神社を探す前にまずは境の宮諏訪神社へ行きましたが、マジでジムニーが欲しくなる山道で、苦労の果てにたどり着いた境内からは日本海が見渡せました。
なんでも長野県内から日本海が見える唯一の場所だと資料にはありました。
御神木には7本の薙鎌が打ち込まれていまして、逆算すると一番古い薙鎌は昭和18年のもの。続いて昭和30年、42年、54年、平成3年、15年、そして最新の平成27年です。
☆写真2:昨年8月に打ち込まれた直後の薙鎌。中央の銀色に輝く薙鎌が新しく打ち込まれたもの。
古い御神木は伐採されてしまったり、明治政府が明治の初年から諏訪大社及び小谷村に対して薙鎌神事を禁止したりしてまして、明治から戦前にかけて長きに渡り薙鎌神事は中断しておりました。
それが昭和14年になり、小倉明神社へ県宝の杉を調査に来た作業員が杉からわずかに顔を出した薙鎌を発見しまして、それで昭和18年から薙鎌神事が再開されることになりましたが、残念なことに境の宮諏訪神社の御神木は2014年11月22日に起きた白馬大地震で日本海側の谷に傾いてしまったため、近い将来は他の木を御神木とすることになりそうです。
ナゼ諏訪からわざわざ150㎞ほども離れた小谷村まで薙鎌を打ち付けに来るのでしょうか?
薙鎌には風を薙ぐ(凪ぐ)ハタラキがありますが、それだけなら他の地域で同じ神事をしてもよさそうなもんですが他ではやってませんし、日本海からの風を鎮めたいのなら他に適した場所があります。
だとすると県境をはっきり示すためなのか?
いやいや、もしそうなら他にも県境などはいくらでもあります。長野県はまわりを8つの県と接してしますので。
ならば元禄年間の信越国境争論で県境をめぐって信濃国と越国がもめたので、それで県境をはっきりさせたかったのでしょうか。
しかし信越国境争論で信濃国の言い分が認められたのは、県境信濃国(長野県)側の御神木に諏訪大社の薙鎌が打ち込まれていたからであり、薙鎌神事はそれ以前から始まっていました。
かといって越国(新潟県)が諏訪信仰を拒否していたわけでもなく、諏訪神社は長野県よりも新潟県の方が多くて、数においては新潟県が全国で最多なんです。んー、さっぱり判らん。
判らんので話題を変えます。
薙鎌神事の境の宮諏訪神社も小倉神明社も小谷村側からは徒歩でしか登れないため、車で行く場合はいったん新潟県へ入りJR大糸線の根知(ねち)駅から山へ登っていくんですが、山を降りて根知に戻り「塩の道資料館」へ寄りました。
いろいろ説明していただいた後、最後の部屋に超目を引く掛け軸があり、よーく見ると江戸時代の薙鎌の魚拓ならぬ薙鎌拓?でした。
製造された日付には”寛政11年(1799年)”とか”天保12年(1841年)”とか”嘉永6年(1853年)”と刻んであり、6年おきの薙鎌神事は遅くともこのころには始まっていたようです。
☆写真3:古き薙鎌の拓。薙鎌の形も時代とともに変化しているのが判ります。
※小谷村から帰った翌々日、皆さんが楽しみにされていた諏訪神社のお祭り当日にとても悲しい事故が起こってしまいました。何とか無事に見つかってほしいと願ってましたが、残念でなりません。
ご遺族様、町内の皆様には心よりお悔やみ申し上げます。