「諏訪古事記 その18」

ヌナカワヒメを探りに新潟県の糸魚川へ行ってきました。
糸魚川のヒスイは出雲や九州でも見つかっているので古くから全国各地と交易があったのかと思いきや、縄文時代の後期中葉(約4000年前ぐらい)までは東北~中部の東日本だけが流通域で、まだ出雲や九州など西日本へは行ってなかったんですね。
文化の中心が西日本に移るのは弥生時代からで、縄文時代は遺跡の数だと圧倒的に東日本のほうが多いですし、話題性のある魅力的な縄文土器はすべて東日本で出土しているので、”縄文の東日本、弥生の西日本”はヒスイの流通からも知ることができました。
そんな糸魚川からある時代になるとヒスイ製品も職人集団も突然消えてしまったんです。
ヤマト朝廷の仕業かっ!

日本でヒスイを産出するのは糸魚川だけだと思われがちですが、そうではありません。ヒスイに分類される石が採れるのは糸魚川以外にも兵庫、岡山、高知、佐賀など全国に11箇所ありますが、装飾品にできるような緑や青やラベンダーの美しいヒスイは糸魚川でしか産出されないんです。つまり糸魚川産以外のヒスイは性質的に”ヒスイ”であっても、フツーの石ころと同じなんですって。
フォッサマグナミュージアムのある学芸員氏は、他の地域のヒスイを”汚ないヒスイ”と呼んでいました。自分が糸魚川にいるからといって、何もそんなヒドい呼び方しなくても…………

話を戻しまして、縄文時代の後期中葉以降は畿内や出雲、九州各地に流通域が拡大した糸魚川産のヒスイですが、弥生時代が終わり古墳時代に入ってしばらくした5世紀の後半になると糸魚川からヒスイ製品が消え、さらには職人集団までもがどこかへ行ってしまったんですって。異次元へアセンションしたんじゃありませんよ。そうゆうのウンザリ。

三種の神器のうち、剣と鏡はヤマト朝廷が自分たちでも作ることができますが、ヒスイの勾玉は作る技術を持っていないため、糸魚川からヒスイの原石と技術集団をヤマトへ拉致?したようなんです。
と同時に糸魚川ではヒスイの加工を禁止したのだとか。そのころからあくどいなぁ、中央政権。

出雲には玉造温泉があるぐらいなので古くから玉(勾玉など)を作る拠点を持っていましたが、出雲での玉造りはメノウ・碧玉・水晶だったため、ヒスイの玉は作っていませんでした。
だからこそ出雲のオオクニヌシは糸魚川のヌナカワヒメに求婚したのでしょうけど、出雲へ糸魚川のヒスイが行ったのは東日本と比べればずっとあとの時代じゃんか。
で、神話は世の中の出来事を擬人化して創作してあるため、オオクニヌシが求めたのは糸魚川のヒスイなのでしょう。つまりヌナカワヒメの正体はヒスイであろうということ。
ついでにオオクニヌシも誰のことか判らないですけども。だって外部からの侵入者に国を譲れと迫られて”はい、判りましたよ”って譲るアホな国王がどこにいるんだってこと。けど今はいいや、オオクニヌシは。

市役所の文化財保存課ではヌナカワヒメをヒスイではなく、ヒスイを加工する技術集団だと考えているようでしたが、問題はヌナカワヒメの正体がヒスイであるとか技術集団であるとかではなく、どちらであってもヌナカワヒメが生んだタケミナカタは何を表しているのかということです。海岸沿いの交差点に立つヌナカワヒメの像の前でしばらく考えましたが、答えは出ませんでした。
ヌナカワヒメにしがみつく少年はタケミナカタか?(写真1)
笑えるぞ、糸魚川市。

オオクニヌシについてもそうなんですが、神話は弥生時代以降の話なので、いずれにせよ神話以前の東日本にはものすごーく長くて大きな歴史があったということで、それを糺さねば日本の未来は明るくないかもしれません。隠された歴史の舞台に立っていたのがアイヌやエミシです。

糸魚川ではフォッサマグナミュージアムや長者ヶ原考古館、それに市役所の文化財保存課でいろいろ取材をしましたが、そろそろ薙鎌(ナギガマ)を調べに県境を越えて長野県小谷(オタリ)村へと移動することにします。
その小谷村のお百姓さんと新潟県側の山口村のお百姓さんが、元禄13年(西暦1700年)に「信越国境争論」で幕府に訴状を出してるんですけど、解決したのは諏訪大社の薙鎌でした。
「信越国境争論」に結論を出させた薙鎌はこんな感じだったと思われます。(写真2)

2016/ 8/24 16:32

2016/ 8/24 16:32

2016/ 8/25 10:43

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