「遷都信濃国」で何度も取り上げましたが、なぜ諏訪は信濃国から独立させられたのでしょうか?
それは天武天皇の意志を継いだ長屋王の思惑によるものだったか?
また、諏訪を好意的に保護しつつ律令制の整備が目的での諏訪国独立か、それとも朝廷に従わない”まつろわぬ者ども”を敵対視して隔離するためなのか。理由がどちらなのかによって導き出される答えが正反対になります。
長屋王が即位していたか否かは別として、実権を握っていたのが721年1月~729年2月まで。2月12日に自害したことになっています。実際は妻子4人と一緒に殺害されたのでしょうけども。
それで諏訪が信濃国から独立して諏訪国だったのが721年6月~731年3月まで。
724年3月には朝廷が、裁判で流罪が確定した罪人を送るのに諏訪国を伊予国(愛媛県)とともに中流の地に定めています。
その直後の725年に朝廷は、陸奥から連れてきた捕虜134人を伊予国に移しています。この捕虜とはもちろんエミシであり、朝廷にとっての”まつろわぬ者ども”に他なりません。
さて、諏訪国が流刑の地に定められたのは”まつろわぬ者ども”が暮らす地として蔑まれていたからだとすると、天武天皇も諏訪を何とか配下に置きたかったけどちっとも従わぬ者どもに手を焼いていたのかもしれませんね。
諏訪から北へ霧ヶ峰・美ヶ原高原を越えた上田市の生島足島(いくしまたるしま)神社にはこんな資料が残されています。生島足島神社は諏訪のタケミナカタとも縁が深いんですが、資料によると
「………その頃はあちこち(諏訪や伊那、松本や安曇野など)にアイヌやその他の民族が先に暮らしていました………」
とのことで、諏訪だけでなく信濃国各地にアイヌ民族がいたことは間違いなさそうです。
729年2月12日、長屋王が謀反の罪により自害したことになってますが、これは不比等の息子4兄弟による謀略で、実際は彼らに殺害されたのでしょう。妻子4人もまとめて。
長屋王が消されて混乱していた都が落ち着いてきたであろうころの731年3月、諏訪国は廃止になり再び信濃国に編入されました。
とうとう藤原による諏訪地域の乗っ取りが始まり、信濃全域を配下に治めれば諏訪を独立させておく必要はなく、まずは(現在の)諏訪大社の下社(春宮・秋宮)地区に藤原の勢力が入りこんだのかな?
諏訪国廃止についてはまだ判らないことだらけですが、こんな伝承が残ってます。
「建御名方大明神が諏訪入りした際に、洩矢(モレヤ)という悪賊がそれを妨げた。洩矢は鉄の輪を持って戦い、建御名方大明神は藤の枝にて洩矢を打ち負かした」
この解釈はいまだに悩みどころですが、まずは先住民であるモレヤを悪賊としていることはアイヌ(またはエミシ)を蔑んでのことと考えられます。
あるいは、実際は逆でモレヤが持っていたのが藤の枝(あるいは藤の根)であり、タケミナカタと表現されている朝廷側の勢力が鉄の武器を持ち込んでモレヤと戦ったとも考えられます。
また別の角度から考えれば、すでに諏訪に移り住み御牧で馬を育てている渡来人(高句麗人か百済人)たちをモレヤと呼んだのなら、鉄の輪とは馬具であろうとも推測できます。実際に馬具としての鉄の輪は各地でたくさん見つかっていますし。
とはいえ彼ら渡来人をモレヤと呼ぶのはどうも納得できず、しかも悪賊としていることから考えてもモレヤとはモレヤ神を祀る先住民のことであり、それはアイヌ(またはエミシ)と考えて間違いないと思います。
そもそも当時の天皇自身が百済人か新羅人でしょうし、朝廷軍の指揮官も渡来人ばかりですから。
そうなると”藤の枝”とは朝廷内で権力の座を奪い取った藤原不比等から枝分かれした連中かもしれないですね。それで諏訪地方には藤森姓が多かったりして。あのオリエンタルラジオの藤森さんとか。
「アイヌの世界を旅する」(太陽の地図帖 028、平凡社)には、白老(しらおい)アイヌの有名なムックル伝承者野本フラテキ媼(おうな)の写真が出てました。(写真1)
大きな首飾り?に、これまた大きな鉄の輪っぽいものがぶら下がっています。
この文化がいつから伝わっているのかが判らないため、これをモレヤが持っていた鉄の輪と断定することはできませんが、ひょっとしたら何らかの糸口を見いだせるかもしれないため、オリンピックと甲子園で中断していた読書を再開します。大量に買いあさったアイヌ関連の本。(写真2)