諏訪古事記 番外編その15

武田信玄は自分の遺体を入れた石棺を諏訪湖に沈めさせて敵の目をあざむいたと伝えられています。
それで日本テレビと信州大学が共同で調査したところ、諏訪湖の北方向(諏訪大社の秋宮・春宮側)で湖底に1辺が約25メートルの不思議な菱形を発見しました。これは人工的な遺物なのでしょうか?
そして菱形内のどこかに石棺が置かれているのでしょうか?
ただし、諏訪湖の湖底には約13000年前の縄文草創期に栄えた曽根遺跡が眠っているため、果たして湖底の菱形と信玄の石棺に関わりがあるかは謎のままです。
最近は諏訪湖ニュースがよく聞こえてきまして、「君の名は」の湖が諏訪湖説、2016年夏には諏訪湖のワカサギほぼ全滅ニュース、2017年になり諏訪湖のミステリーサークル話題などなど。次は信玄の石棺が見つかるニュースになるのでしょうか?

そのような話はともかくとして、信玄は自分の後継ぎに四男の勝頼を選びました。本来なら後継ぎとなるであろう正妻の子で長男義信や次男勝重がいるというのに、諏訪御料人と呼ばれる女性に産ませた勝頼を後継ぎにしたのはナゼ?

諏訪御料人は諏訪の大祝(おおはふり・おおほうり)の血を引く女性です。その諏訪御料人が産んだ勝頼が、なぜそれほどまでに大切だったのでしょうか?
実は信玄の長男義信は信玄によって幽閉され、しまいには自害へと追い込まれています。
信玄にとって勝頼はどのような存在であり、そして勝頼を産んだ諏訪御料人の持つ諏訪氏の血は信玄に何をもたらしたのでしょう。

それを理解するにはまず諏訪氏の出自を知らなければいけない訳ですが、この諏訪氏の出所がどこにも残っていません。
唯一、下社(春宮・秋宮)の大祝である金刺氏と同族であるとの捉え方もありますが、それも確証があるわけではなく納得できる証拠もありません。

研究者によれば勝頼の血を徳川家康や織田信長さえも欲しがったといいます。ただし、家康は諏訪大社を手厚く扱ったのに対して、信長はそうではなかったようです。
そのあたりの時代の歴史はボクの知識からまったく欠如しているため専門家に聞いてみます。中世のことなので、まずは諏訪市博物館の小林純子館長かスワニミズム会長で「龍蛇神 諏訪大明神の中世的展開」の著者原直正さんがベストだと思いますがいかがでしょう。

勝頼が自害したとされるのは1582年3月11日で、場所は山梨県塩山市の天目山ですが、それは2012年12月2日に起きた笹子トンネル崩落事故現場のすぐ近くです。
また、そこではリニア新幹線の実験もおこなわれており、おそらく実際のコースもそのあたりを通るのでしょう。ちなみにリニア新幹線は東京駅ー名古屋駅間を40分で結ぶ予定ですが、その86%はトンネルの中です。地下鉄かって。
それに東京駅から名古屋駅まで40分で着いたところで、名古屋駅からボクの自宅までは50分以上かかるんだから新幹線でいいや。

勝頼は信長によって自害に追い込まれていますが、その3ヶ月も経たない6月2日に信長も本能寺で討死しています。
しかし勝頼は四国の土佐で生き延びていたとの伝説もあり、土佐では伝説どころか丸々真実であると信じられているようです。第81代安徳天皇といい義経といい、そのような話は跡を絶ちませんが、勝頼の場合はかなり具体的であり、なおかつ子孫の系図も残されていまして、面白いですね。

天草四郎時貞が実は豊臣の生き残りであり、1637年島原の乱は隠れキリシタンによる農民の一揆などではなく、徳川vs豊臣の最後の戦いだったことが今になって判ってきました。
だとしたら勝頼伝説もあり得る話でして、勝頼夫妻の墓所とされるのが高知県の鳴玉神社なので、元諏訪と呼ばれる徳島県吉野川市へ調べに行ったときにでも寄ってみようかと思います。