糺日本書紀 part15

part13では、天武天皇の正体は郭務宗(カクムソウ)の可能性がありそうだ、ということで終わってましたね。
ですけど実はカクムソウって藤原鎌足に比定されていまして、それはそれで納得できてしまうので事は単純じゃないんです。もちろん余豊璋(ヨホウショウ)=鎌足説も捨てきれませんが。

まず、鎌足と中大兄皇子(のちの天智天皇。けど天智の時代はまだ天皇の呼称がなかったので本来は天智大王)が出会ったきっかけは、中大兄が蹴鞠をしていたら靴が飛んでいってしまい、それを鎌足が拾って中大兄に履かせてあげたことになってます。もちろん作り話ですけど。

鎌足ってナニ者?
だって、皇太子ということになっている人が遊んでるすぐ近くにいられること自体、鎌足はフツーの人じゃないわけで、日本書紀の編者もそれは隠そうとしていません。

続き

さーてと、その天智天皇ですが実は存在していなかったとしたら。
そんなことを言おうもんなら九州から大バッシングを受けることになりますので説明しますと、九州にはいましたよ、中大兄皇子は。
北部九州では実際に百済から亡命してきた王族の皇太子という立場だったのでしょう。
だから中大兄皇子は実在していますが、九州にいた中大兄皇子のことを今後は九州天智と呼ぶことにします。
九州にいたころはまだ天智天皇として即位してませんが、今後の話の性質上、九州天智のほうが判りやすいと思われますので。

では存在しなかったかもしれない天智って誰のことなんだって話ですが、大和にいたことになっている中大兄皇子および即位後の天智天皇が実はいなかったかもしれないんです。
だったら日本書紀に出てくる大和の中大兄皇子や天智天皇はどう説明するのか?
はい。その前に日本書紀で大和にいたことになっている中大兄皇子と天智天皇についてを今後は大和天智と呼びます。

おそらく九州天智は大和に入ってません。仮に畿内へは来たことがあったとしても、難波あたりまででしょう。
日本書紀の天智期もまったく内容がなく、仕方ないのでテキトーに書いたとしか考えられませんし。
しかしそうであっても日本書紀では大和天智は存在しますよね。
それではその大和天智とは?

日本書紀では671年10月17日、大和天智の病いが深刻になり、12月3日に近江宮(大津宮)で崩御されたことになっています。病死です。
しかし「扶桑略記」ではまったく違った記述があり、大和天智は山科へ狩りに行ったまま行方不明になって、しかも遺体は見つからずに靴だけが残されていたことになっているんです。遺体が見つからないって、天皇だろうに、天智は!
ちなみに山科は鎌足の本拠地です。
そして、靴が残ったってか!

以前、蹴鞠をしていたとき中大兄皇子に靴を履かせたのは誰だったでしょうか?
そう、鎌足です。
そして最期は遺体が見つからず、靴だけが残されていた。
これは「扶桑略記」の編者が後世に真実を残してくれているのであり、しかし編者としてはこれ以上のことが書けなかったのではないしょうか。
鎌足が大和天智と出会ったときに履かせた靴は、今後の大和天智は鎌足の分身として歩むことになる架空の大和天智の運命を暗示していたのであり、靴を残して死んだ天智とは、まさに鎌足の足跡として歩んだ分身ということなのでしょう。
だから遺体は出てきませんよ。大和天智は架空なんだから。

というわけで大和天智は鎌足であり、鎌足の悪行と失敗した政策はすべて大和天智がやらかしたことになっているんです。
なので鎌足はどれだけ悪しきおこないをしても手を汚さずに済み、それらはすべて大和天智がやらかしたことにしてしまったという、まぁ日本書紀の恐ろしき企みにいまだ日本国民は騙され続けているのが現状です。

part16では、大和天智がやらかしたことになっている鎌足の悪行を具体的に見てまいりましょう。
たくさんありますぞ。