糺日本書紀 part16

大和天智が蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)した後におこなったことになっている中央集権的な国家体制である律令制度(大化の改新)は、大和天智=鎌足が蘇我氏の政策を横取りしたのであり、本来は蘇我馬子・蝦夷・入鹿らの蘇我氏が進めていた国造りであると最近では考えられるようになっています。
ということは学校で教わる、蘇我氏が律令改革に反対したり横暴に振る舞ったから大和天智(当時は中大兄皇子)と鎌足が蘇我入鹿を殺害したというのはデタラメで、実は蘇我氏が律令制度を整えようとしていたのでしょう。
けど、大和天智は存在せず鎌足のことですから、鎌足は蘇我倉山田石川麻呂をそそのかして入鹿を呼び出し、現在も入鹿の首塚があるあたりで殺害したと思われます。
ということは、皇極天皇の目の前で入鹿の首がはねられた日本書紀のあのシーンもまったくの作り話ですね。
そもそもあのシーン……………

そもそもあのシーン、鎌足は後ろで弓矢をかまえたまま動かず、皇太子である中大兄皇子が自ら長槍で入鹿を殺害した実行犯だなんてありえないでしょう。
鎌足が実行犯で、皇太子の中大兄皇子が後ろで見ていたのならこのシーンに疑問を持つことはなかったかもしれませんが、まったく逆ですもんね。
皇太子よりも鎌足のほうが位が高いなんていうことはなく、ただただ鎌足は中大兄皇子を悪者にしているだけなので、これも大和天智が架空である理由のひとつです。

ちなみに、入鹿が殺害されたことにショックを受けて退位したことになっている皇極女帝ですがこれも架空でしょうから、では誰が即位していたかというとまさに蘇我入鹿その人でしょう。
ただし、即位といっても現在の天皇とは違い、当時その地を支配する豪族たちの中の大王ということです。

入鹿殺害を目の当たりにした蘇我派で唯一の皇族である古人(ふるひと)大兄皇子は「韓人が鞍作臣(入鹿)を殺した」と言い残し、その後は出家して吉野へ向かったことになっています。
しかし蘇我日向にありもしない謀反を密告されて…………ほら、また蘇我が悪者にされている…………古人大兄皇子は吉野で殺害されました。蘇我入鹿殺害からわずか3ヶ月後のことで、これも大和天智の仕業ということになってます。
もし本当に大和天智がやらかしたのなら、日本書紀の編者としてはやがて天皇になる(ことにしてある)人物なんだから、配下の誰かがやったことにしておけばいいのに、意図的に大和天智が横暴に描かれてます。
そう、大和天智さえ悪者にしておけば、鎌足は手を汚さずに済みますからね。
ということは、韓人とは鎌足のことなのでしょう、百済から来た。

古人大兄皇子殺害から3年半が経った649年9月。今度は蘇我倉山田石川麻呂が謀叛の嫌疑をかけられて結局は自害にまで追い込まれ…………また蘇我から犠牲者が出た!…………さらには大和天智が差し向けた兵によって、石川麻呂の遺体はズタズタに切り裂かれたことになってます。
もちろん謀反はデタラメで、後になって間違いであったことを知った大和天智はひどく嘆き悲しんだことになっていますが、アホか。なんじゃ、その話。
この話も鎌足が自身の悪行を大和天智になすりつけているだけの話で、この殺された蘇我倉山田石川麻呂こそが蘇我入鹿大王の後に即位した(ことになっている)孝徳天皇の前半部分の可能性があるんです。可能性ですよ。

孝徳天皇の即位中には途中で元号が変わっており、645~649年が「大化」、650~654年が「白雉」になっていて、そもそも孝徳天皇も誰かを隠すために創作された名前なのでしょうね。
途中で元号が変わっているので孝徳天皇時代は二人の天皇がいたとも考えられるわけで、孝徳天皇の政策は蘇我路線を継承していることから親蘇我派の人物であろうことと、蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれた年に「大化」が終わっていることから、孝徳天皇の前半部分は石川麻呂が鎌足に担がれて即位していたのではなかろうかと。
石川麻呂は蘇我入鹿の殺害に協力させられ、その後は鎌足主導によって遷都したであろう難波で右大臣に昇進したことになっていますが、実際のところは鎌足に操られつつ鎌足の傀儡として即位させられていたのではないでしょうか?
なにしろ蘇我入鹿殺害の前年、石川麻呂の娘が大和天智に嫁いだことになっていますが、大和天智は架空なので鎌足に嫁いだことになります。
これは鎌足が入鹿を暗殺するにあたって、あらかじめ蘇我氏から協力者を得たかったがための政略であり、恐るべし鎌足。

では孝徳天皇の後半部分は誰なんだということになりますが、まだ判りません。
それよりも、大和天智を悪者にした鎌足の悪行はまだ続きます。