「遷都信濃国 vol.6」

685年(天武13)に天武天皇は三野王(美濃の王)を信濃に派遣し、その年に現在の松本市朝間温泉に行宮を造って信濃遷都を具現化しました。
天武天皇はどうして信濃の地を遷都先に選んだのでしょう。

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長野市内には現在でも「尾張」の名前が残っていまして、町名としては北尾張部(きたおわりべ)と南尾張部、そして尾張神社も存在しています。
近くには美和神社もありまして、境内入口の鳥居が、奈良県桜井市大神(おおみわ)神社の拝殿奥に隠れる三つ鳥居(三輪鳥居)ですので、御祭神はニギハヤヒでしょう。
もちろんのこと尾張国一ノ宮の真清田(ますみだ)神社も、東谷山の尾張戸(おわりべ)神社も御祭神はニギハヤヒです。

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同じ長野市で、松代の皆神山はかつてUFO神社が話題になりましたが、山頂の皆神神社境内には熊野出速雄(くまのいずはやお)神社があります。
御祭神の一柱「古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)」は、645年乙巳(いっし)の変で蘇我入鹿が殺害された後、古人大兄皇子も謀反の疑いで中大兄皇子(天智天皇)に殺された………ことになっていますが、実は皆神山に隠れていたとしたら…………

長野市内にナゼ北尾張部・西尾張部など「尾張」の名が付いた地名があるのでしょうか。
醍醐天皇(在位は897~930年)の皇女勤子内親王の命によって撰進された倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)………難しすぎる………通称は和名抄(わみょうしょう)に、信濃国水内郡の郷名として「尾張部」が出てくるため、古代からの地名のようです。

どうしてそんな古い時代から「尾張」の名が?
はっきりとしたことは判っていませんが、ヤマトタケルが信濃を通過した際に同行していた尾張氏の勢力があったようで、それが関係していると考えられています。
これは研究者の推測ですが、水田耕作に不向きな信濃の地で安定した稲の栽培を指導したのではないか、と。
そのようなことが記された碑も残されており、尾張氏を崇敬して尾張神社に祀ったのかもしれません。

さて、天武天皇の信濃遷都は長野市ではなく松本市ですので松本・諏訪方面へ移動します。
松本市の朝間温泉に行宮を造営した天武天皇ですが、突如としてその計画が消えてしまいました。

また、天武天皇の孫にあたる長屋王………父は天武天皇の第1皇子の高市(たけち)皇子。大津皇子と同じように高市皇子も持統天皇に葬られたのでしょう………は721年に「諏訪国」を設置したようです。
信濃とは別の国が信濃にできたわけですね。

ところが729年の「長屋王の変」で藤原不比等の4人息子らによって死に追いやられた長屋王。
このとき長屋王の妻である吉備内親王も、膳夫(かしわで)王・桑田王・葛木王・鈎取(かぎとり)王ら息子たちも首をくくって死んだと歴史は語ります。
そしてその後、不比等の4人息子たちは次々と天然痘で死にました。
長屋王の祟りと噂されていますが、そうでしょうか?
殺されたんだと思います。
1972年9月、ミュンヘンオリンピックでイスラエル選手団11人を殺害したアラブテロリストを、イスラエルのモサドが次々と殺害したように。

長屋王が亡くなるとすぐに「諏訪国」は信濃に併合されてしまいました。
天武天皇が望んだ信濃への遷都、それを実現させようとしていた長屋王。
ともに阻止されてしまったのは、天智天皇vs天武天皇から続く百済vs新羅の覇権争いのためなのでしょうか?

ここで天武天皇の出自について、興味深い説をご紹介いたします。
何しろ天武天皇は歴史に突然現れていまして、もし本当に記・紀がつたえるように天武が天智の弟であるならば、突然の出現は理解できません。

長野県松代の皆神山山頂、皆神神社の神主家に伝わる家系紀略に
「古人大兄皇子は自殺したように見せかけておきつつ、斉明4年(658)皆神山にたどり着いた。そして10年後の天智7年(668)3月7日に死去。飯盛大神と謚(おくりな)する」

問題は、自殺と見せかけて皆神山へ逃げてきたけとではございません。
天智7年3月に古人大兄皇子は本当に死去したのかどうか?
というのも、驚くことに天智7年2月に古人大兄皇子の娘で倭姫王(やまとひめおおきみ)が、天智天皇の皇后になっているんです。

逃げていた古人大兄皇子は、天智天皇7年2月に娘が天智天皇のもとへ嫁いだことで逃走罪を許されたのか?
それとも、生きている父を助けようと娘は天智天皇に嫁いだのか?
いずれにしろ、古人大兄皇子はもう逃げ隠れする必要がなくなったのでしょう。
そして翌3月に古人大兄皇子という名の人は皆神山で死んだことにしておき、古人本人は新しい名前と人生を手に入れた。

もしも、もしもですよ、その新しい名前が……………

続く。