「遷都信濃国 vol.7」

もしも古人大兄皇子の新しい名前が大海人だとしたら………
大海人皇子の前半生はまったく不詳であり、歴史に突然出現しています。
もし残された歴史の通りに大海人皇子(天武天皇)が中大兄皇子(天智天皇)の弟だとしたら、大海人皇子の前半生が何も記されてないのは不自然極まりないわけですね。

天武天皇は第40代の天皇なのに、生まれた年が判っていません。
※天皇の呼称としては初代でして、大王(おおきみ)として第40代ということです。ただし、第15代の応神天皇以前は存在があやふやなので、実際は何代目なのか判りゃしませんけども。

天武以前の天智(第38代)も斉明(第37代)も推古(第33代)も継体(第26代)も生まれ年は定められています。
とにかく、第18代の反正天皇以降で生まれ年が判ってないのは天武だけです。
変でしょ。ねぇ、変でしょ。

史実を恐ろしいほどデタラメに改ざんしている日本書紀なんだから、ナゼ天武だけ出生年を不明のままにしてあるのでしょうか?
どうせだったらデタラメの出生年を残せばいいのに。
けどこれ、日本書紀を記した先人たちが、後世の人々に残してくれたヒントなのかもしれません。
わざと出生年を空欄にしておくからカラクリを解いてください、と。
しかし、それ以上の具体的な事は不比等の目があって書けなかった………のだとすると、必ずカラクリを見破るけとができるはずです。

古人は古い名前を捨て、大海人に生まれ変わったのでしょうか?
「天智天皇の秘密と持統天皇の陰謀」の著者榊原康彦氏は、皆神山へ逃れた古人大兄皇子は影武者であった可能性があると著書に記されています。
皆神山へ逃れたのが影武者だとしたら、古人本人は畿内のどこかに潜んでいたのでしょうか?
それで娘が天智に嫁入りすることで和解が成立し、古き名を捨てて大海人の名を得た古人は歴史の表舞台に突如として登場した?

皆神山と同じ地区の松代町豊栄には古人大兄皇子の墳墓が確認されていますが、埋葬されているのは影武者なのでしょうか?
それとも空の棺を納めたのでしょうか?
いずれにしても古人本人ではなさそうです。

しかし、古人が皆神山へ逃げた658年よりも5年前の653年に大海人皇子の名前が日本書紀に出てきます。
ということは、本物の大海人に入れ替わるような事件が起きたのか、日本書紀を記す段階で意図的に大海人の名前を挿入したのでしょうか?

教科書で天武天皇は天智天皇の弟になっていますが、研究家によれば実際は天武の方が歳上らしいです。
そこから天武の出生年を予測すると622年前後でしょうか?
622年といえば聖徳太子が亡くなったとされる年ですね。
日本書紀の初見は31歳。
皆神山へ逃げたのが36歳。
天智天皇との和解成立?が46歳の時で、壬申の乱が50歳ということになります。
それで翌年に即位して、686年9月9日に64歳(あるいは63歳)でなくなっている計算です。
どうやら関祐二氏も著書「天武天皇 隠された正体」の中で大海人皇子と古人大兄皇子は同一人物だと主張されているようでして、早急に読んでみます。

もし天武天皇の前半生が古人大兄皇子だとしたら、信濃国を遷都先に選んだ理由が少しだけ見えてきませんか?
それと、天武天皇は諏訪のタケミナカタ神を信仰していたのか否かも鍵になりそうです。
奇しくも皆神山の熊野出速雄(いずはやお)神社には、古人と共にタケミナカタ神の御子を祀っています。
神社名の”出速雄”がタケミナカタ神の御子の名前そのものでして、諏訪大社から勧請(かんじょう)しています。

別の著書を調べていたところ、戸隠神社の創建が天武天皇だと書かれていました。
これも調べてみないとわかりませんが、諏訪と戸隠は何度も大切なお祭りをしてきました。
諏訪では2008年8月26日と2009年7月17日に。
(前者は「弥栄三次元」に、後者は「ヱビス開国」に詳しく書きました)
戸隠では2010年10月10日と2012年11月17日に。
(これも前者は「時空間日和」に、後者は「遷都高天原」にしっかり書いてあります)
また、戸隠では他に何度もイベントを開催していますし、今年秋の戸隠ツアーでは大勢を引き連れて皆神山へも久しぶりに行ってきました。
何がどう絡んでいるのでしょう?

続く