「遷都信濃国 vol.13」

イスラエルの目的のひとつは、ユダヤ人よりも先にカナンの地(パレスチナ)で暮らしていた人々の痕跡を消してしまい、この地に住み始めたのは自分たちが最初であると訴えること。
それは、神が我々だけにこの地を与え給うたのだと、カナンの地の占領を正当化するために。

藤原不比等が尾張氏を歴史から抹殺しようとしたのも同じようなこと。
尾張氏族ら一部の豪族たちは、のちの支配者らが権力をもってしても配下に治まることを拒否し、それでもなお人々からの支持を受けて勢力を維持し続けていたのでしょう。
すると支配者側には彼らに対する恐怖心が生まれてきます。
その恐怖心はやがて怒りへと変わり、徹底した尾張氏潰しにつながったのだと思います。

あれっ、このコーナーのテーマは天武天皇がナゼ遷都先に信濃国を選んだのかでしたが、パレスチナの話まで出てきてしまい、収拾がつかなくなってきました。

不比等としては「実の父」である親百済の天智天皇と、表向きは天智の右腕として、けど実は天智を操っていた百済人で「もう一人の父」中臣鎌足の跡を継いでいるため、不比等が編纂した日本書紀は百済寄りの親百済(新羅を敵視)の歴史書になっています。
※不比等は山科の田辺史大隅に養育されたらしく、なのでさらにもう一人父がいるのかもしれません。

それで古事記はそれに対抗するため、これまた親新羅に片寄った新羅系による新羅人のための歴史書に仕上がりました。

古事記は西暦712年に、日本書紀は720年に完成したことになっていますが、古事記の方が後だとおっしゃる人もいます。
反藤原の勢力(親新羅の人々)が日本書紀(親百済・反新羅)に対抗して残したのが古事記なのだと。
しかしそれよりも、問題は古事記にしろ日本書紀にしろ、尾張氏などの目障りな豪族は歴史から抹殺されてしまっていることでして、尾張だけでなく、近江も丹後も但馬も、あるいは越前も紀伊も、程度の差こそあれ歴史が歪められ、光が消されています。

氏系図からヒントを汲み取ることは可能でしょうか?
◎丹後の国の一ノ宮、始祖が彦火明命から始まる籠(この)神社海部氏の氏系図。
◎先代旧事本紀に記載されている、始祖がニギハヤヒからの尾張氏系図や物部氏系図。
◎個人的な話で恐縮ですが、ニギハヤヒまでつながっている我が家の尾張深田氏系図。
◎古代天皇家の系図を制作するにあたり、元になっているであろう百済王・新羅王・高句麗王の系図。
◎大きさはバカでかいけど史実としての信憑性は期待できない「古事記・日本書紀 神々の系図一覧」等々。

この1ヶ月間ほどは、幅が260センチある書斎の机が各種系図に埋もれてまして、それらを比較しつつ眺めておりますと、古事記・日本書紀に出てくる神話の神々の系図は理解に苦しみますけど、かといって他のものもそのまま鵜呑みにすることはできず、面白いけど悩みます。

もし世間の定説通り、実在した天皇としては第10代の崇神が最初であり、(初代とされている)神武=崇神であるならば、不思議な話になります。
神武は西暦241年ごろ、ニギハヤヒの末娘の御歳(ミトシ、またの名を高照姫)に婿入りしています。
崇神の妻は尾張の大海媛であったり、紀伊の八坂フルアマノイロベだったりしますが、八坂フルアマノイロベは尾張大海媛のことのようなので、神武=崇神の場合、崇神が尾張の娘に婿入りしたのでしょうか?

また、「聖徳太子は蘇我入鹿である」の著者関裕二氏の神武=応神の場合もやはり面白く、八幡神社で応神天皇は誉田別尊(ホムダワケノミコト)として祀られています。
誉田別というのは、誉田ジュニアということ。
雷(イカズチ)がスサノヲで、別雷(ワケイカズチ)はスサノヲの息子ニギハヤヒであるように。

それでは誉田の名の元は誰かと系図を追うと、誉田真若命ではなかろうかと。
誉田真若は大海媛→八坂入彦→八坂入姫→五百木(イホキ)入彦→誉田真若と続く尾張氏の血筋。
そして誉田真若の娘の三姉妹(高城入姫・仲姫・弟姫)が応神天皇(誉田別)に嫁いでいるため、やはり誉田別の名は誉田真若から別れたのではないでしょうか?
だとするとやっぱり尾張の娘が嫁いでいることになります。

初代神武の正体が第10代の崇神であっても第15代の応神であっても尾張氏の娘が嫁いでいて、しかも尾張氏側は娘を嫁がせてもらったのではなく、相手を娘の婿にしてやった的な要素があります。
古代尾張氏ってどんだけ~!