「遷都信濃国 vol.26」

だんだん天武天皇から遠ざかっているような気もしますけど、諏訪の歴史を判らずして信濃への陪都は理解できなさそうなので、しばらくは諏訪を再考します。

縄文時代の中期、日本でもっとも人口が多かったのは諏訪湖を中心とした地域だったそうです。
特に諏訪湖北側の蓼科山麓には当時の集落跡や遺跡が次から次へとわんさか見つかっていて、標高1700~1800メートルの山の中腹や山頂付近にも大勢が暮らしていました。
縄文中期は温暖な気候だったのでしょうか?
いえいえ、そんなことはなく、寒かったらしいです。
ではナゼ人々は山の中へ中へと移動したのでしょうか?

寒冷気候により山の麓では栗など木の実が採れなくなってしまい、野生の動物を捕獲しやすい山奥の厳しい環境に自らの身を置いたとのこと。
主な獲物は鹿・猪・兎などで、それが諏訪大社上社で毎年おこなわれる御頭祭(おんとうさい)につながっているのかもしれません。
かつての御頭祭は75頭の鹿の頭などを神前に供えましたが、現在は3頭のはく製を用いておこなっています。
諏訪では農耕文化と狩猟文化が共存した祭祀が現在まで継承されていますが、大和朝廷の農耕祭祀には狩猟文化の影響は見受けられません。

縄文時代の遺跡が多数見つかった蓼科山麓地域は、本州で有数の黒曜石が産出する和田峠が近くにあるため、矢じりが大量に出土してますし、矢じりを作るための黒曜石のカタマリもたくさん残ってました。
♪連れて逃げてよ~
ついておいでよ~
夕暮れの~雨が降る~
矢じりの~渡ぁしぃ~

関東の縄文遺跡で発見された矢じりも、和田峠の黒曜石が使用されていて、本州各地に運ばれていたのでしょう。
写真は長野県茅野市(諏訪市の東隣り)の尖石(とがりいし)縄文考古館内に展示されている黒曜石の矢じりと原石。

ですが、縄文時代の人々がすべて山奥の高地に暮らしていたわけではなく、その証拠に諏訪・茅野・塩尻・松本などでは地面を掘ればドサリンコと縄文土器が出てきまして、その数があまりにも多いので、この地域では縄文土器なんぞは珍しくも何ともないんです。

縄文から弥生への移り変わりは稲作が普及したことによりますが、最近の調査では弥生時代の年代がどんどん古くなっています。
諏訪の地へは出雲のタケミナカタが稲作を持ち込んだのだと、あちこちで耳にしますが、うーん、どうなんでしょう。

たしかに諏訪の古代文化は出雲の影響を受けているようです。
出雲系の集団の諏訪入りは三世紀末から四世紀初頭だと考えられていて、ちょうど銅鐸文化が終焉をむかえたころとのこと。
しかし、稲作が諏訪盆地へ伝わった経路は、太平洋側から天竜川を遡ってではないでしょうか?
それが八坂刀女(ヤサカトメ)神の伝承と結び付けられているとしたら………
(※ヤサカトメの名前に「刀」の文字が入っているため、刀や剣の神様ですかと聞かれることがありますが、”ト”の音に「刀」を当てはめただけの万葉仮名でしょうから、漢字の意味は関係ないと思います)

さて、最近はタケミナカタとヤサカトメを夫婦と考えることにかなり抵抗を感じますが、そもそもヤサカトメなる女神の正体はさっぱり判らず、曖昧な神社伝承のひとつが伊勢から来た説です。
それは、伊勢の国を開いた天白神の八坂彦命の娘がヤサカトメであるとしていて、浜名湖の東に流れ出る天竜川を遡って諏訪へ至ったというもの。
その説が正しいかどうかは判りません。多分正しくないでしょう。
ですが、作り話だとすれば、伊勢から太平洋側の東へと広まった稲作が、天竜川を遡って諏訪へと伝わったこととヤサカトメ伝承をリンクさせ、何かしら諏訪の歴史に手を加えたい企みがあったのかもしれません。無かったのかもしれませんけど。
どちらにしろ話が歪みそうなのでヤサカトメについてはもうやめます。

天竜川に沿ったルートで諏訪入りしたのは稲作だけでなく、後の時代には馬もそうであろうと考えられています。
それに、天武天皇も壬申の乱では信濃の兵と馬に助けられています。
その信濃の兵と馬は諏訪大社下社(春宮・秋宮)の大祝(おおはふり)金刺氏の協力によるようですが、諏訪の地では上社(前宮・本宮)の大祝諏訪氏と金刺氏は敵対関係でもあるんです。
それで金刺氏を滅ぼしたのは諏訪氏(の一部)でして、天武天皇に協力していたのは金刺氏。
何だかキナ臭い話になってきました。
続く。

2015/ 8/ 6  9:45

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2015/ 8/ 6  9:44

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