「遷都信濃国 vol.27」

壬申の乱で天武天皇に協力したのは諏訪の金刺氏。金刺氏は諏訪大社下社(春宮・秋宮)の大祝(おおはふり)です。
一方で諏訪大社上社(前宮・本宮)の大祝は諏訪氏で、金刺氏とは敵対関係でもあると申しました。
そして金刺氏を滅ぼしたのは諏訪氏(の一部)であるとも。

「遷都信濃国」の性質上、天武天皇に協力した金刺氏に肩入れする方向で古代史をひもとく内容になりそうなものですが、そう単純な話ではございません。
そもそも上社の諏訪氏と下社の金刺氏は元々が同族のようで、諏訪の地へ進出する以前は伊那谷の、現在の飯田市あたりを本拠地としていたようです。
ちょうどその時期、飯田市界隈に前方後円墳が24基も造られていて、朝廷にとって何か利益になるモノを持っていたからこそ古墳造営を許可されたのでしょう。

やがて諏訪に進出した金刺氏はある代で兄弟が上社と下社に分かれ、それぞれが大祝を立てるようになったという系図が残っていますが、さぁてどうなんだか…………

上社の金刺氏は十一世紀ごろになると「神」氏を名乗り、それが後の諏訪氏です。
しかし金刺氏(のちの諏訪氏)が諏訪の上社地区へ進出してくる以前から、諏訪には祭祀を司る氏族がいました。
諏訪氏の配下ではもっとも信頼と歴史とを持ち、神長官(じんちょうかん)と呼ばれていた守矢氏です。
守矢氏の起こりは洩矢(モレヤ)神であり、諏訪はもともと洩矢氏が治める地でした。
そして洩矢氏が祀るミシャグチ神こそが諏訪大社以前の神です。
ミシャグチ神を降ろすことができるのは洩矢氏だけでした。
※ミシャグチ神は「御左口神」とも書きますが、ちょいと納得できないものがあるためミシャグチ神で表記します。

壬申の乱で天武天皇を助けたのは親朝廷側の金刺氏のようですが、下社金刺氏は朝廷に取り入ることで、諏訪の地を支配したかったのではないでしょうか。
というのも、上社地区の洩矢氏(守矢氏)はかたくなに自分たちの神と伝統を守り抜き、しかもその神が見えない世界からものすごい力を地上に及ぼしていると考えられるような出来事が起きていれば、そうそう手出しはできません。
それで下社金刺氏としては朝廷の後ろ楯にして諏訪を支配しようと考えたのかも…………
言い換えると、歴史に残されている範囲に限って言えば、諏訪最古の神はミシャグチ神で、その祭祀を許されたのは洩矢氏だけだったことになります。

洩矢氏の歴史は古く、物部家14代目の世代に当たる物部守屋の次男(物部家15代目世代)が諏訪の守矢家へ婿入りして、守矢家27代目を継いでます。
この系図を信用するならば、現在の守矢家を継ぐのは78代目の早苗氏。
78代目ということは籠神社の海部氏とあまり差がないではないか。
海部氏の系図も考古学的には疑問がありますが、その追及を今はしないことにすると、守矢氏の洩矢神と籠神社海部氏の始祖ニギハヤヒはほぼ同時代の可能性があります。同級生かもしれない。
どこのだ?

先ほど諏訪最古の神は歴史に残された範囲ではミシャグチ神と申しました。
しかし、歴史から消された神々もわんさかいまして、諏訪にはススキ氏の神がいて、手長・足長の神もいます。
神と表現すると神話的になってしまいますが、簡単に言えば先住民・土着民のことで、残された歴史以前の神々は先住民・土着民が祀る神々であり、なおかつその地を開拓した先住民・土着民そのものでしょう。

「弥栄三次元」にはそのあたりのことをしっかり書きましたし、古き神々の汚名返上のため2008年8月26日に諏訪大社前宮で「和睦の祭典」をおこなったんでした。
祭りには150人以上が参加していただき、「うさと」のうさぶろうさんも神事に必要な比礼(麻布)を用意してくださったことを思い出しました。タイへの帰国をわざわざ遅らせてまでして。
そういえば、7年も前の「和睦の祭典」からすでにトルコの国旗を用意させられていました。
タガーマハラン(高天原)での神事と諏訪の関係がいつかは解けるかもしれません。けどその話はもういいや。
それよりも、久しぶりに松本市内の須々岐水(すすきがわ)神社へ取材へ行ってきます。
境内の神域でススキを育ててる神社でして、「和睦の祭典」ではそのススキを提供していただきました。
詳しくは「弥栄三次元」に書いたので省きますが、タケミナカタが諏訪入りしたことで諏訪から追い出されたとされるススキ氏を祀った神社です。

2015/ 8/13 20:40

2015/ 8/13 20:40

2015/ 8/13 20:40

2015/ 8/13 20:40