「諏訪古事記 その5」

最近は御柱(おんばしら)のことばかり考えているので、道路沿いの電柱まで御柱に見えてしまいます。
数にすると
“オンバシラ”は「125」で、”開闢(かいびゃく)”などと同じですが、なんと”守屋山”も「125」になりまして、2016年は「125」がキーナンバーかもしれません。
“ミハシラ”ですと「117」になり、”ありがとう”とか”誕生”ですね。

けど今回は諏訪の元神とも言うべきミシャグチ神と、それを祀る守矢氏についてを。
諏訪大社本宮から前宮へ向かう途中で、茅野市に入るとすぐに神長守矢資料館はあります。
神長は”じんちょう”と読み、かつて諏訪氏が大祝(おおはふり・おおほうり)だったころ、諏訪氏を補佐する五氏(五官祝)の筆頭が神長または神長官と呼ばれ、守矢家がそれにあたります。

しかし、諏訪氏が諏訪へ入って来る以前から諏訪の地では守矢氏がミシャグチ神を祀っており、それは縄文時代から続いていた信仰のおもかげを残しています。

その守矢氏の本拠地はもともと前宮の地にあり、ですから諏訪大社の前宮は、諏訪氏が中心になっている本宮とは別々の信仰として考えるべきでしょう。
御頭祭(おんとうさい)も本来は守矢氏の祭りで、以前は実際に75頭のシカの頭を前宮の十間廊に供えていました。(現在は3頭のシカの剥製を供えます)
毎回75頭ものシカを捕まえるのかと思いきや、当時は祭りになると近隣の人々がそれぞれ獲物を持ち込んだらしく、それで75頭が揃ったのだとか。
そして言い伝えでは、いつも必ず耳の裂けたシカが1頭だけいたそうです。
シカが足りないときにはイノシシも混ぜたようで、守矢史料館の壁には25頭のシカとイノシシの頭が飾られています。
それらとは別に置かれた、耳に裂け目があるシカは実に凛々しく端整なお顔立ちで、写真がそれです。思わず頭を下げてしまいました。

なぜ神聖なる神殿に獣の生首を捧げていたのでしょうか。
実はシカやイノシシだけでなく、他にも贄(にえ)を用意しており、守矢史料館にはそれらも復元してありますが、あまりにも生々しいのでここには記しません。

どこか他の人種が持ち込んだのか、それとも大昔は諏訪以外でも同じようなことをしていたのか。
また、なぜ75頭なのか。
史料館に通いつめて館長と親しくなりましたが、なかなか真相がつかめません。

先ほどミシャグチ信仰は縄文のおもかげを残していると書きましたが、諏訪の本来の神はミシャグチ神とソソウ神です。
諏訪の神は蛇神だと解釈されたりしますが、それはソソウ神としてのハタラキであり、ミシャグチ神ではありません。
ミシャグチ神の姿を、蛇であったり石神信仰と捉えられたり、あるいは大木であるとも解説されていますが、ミシャグチ神とは人にも石にも木にも憑く”精霊”といいましょうか”意識体”と申したらいいのか、とにかくスピリットですので、蛇でも石でも大木でもないわけです。

ですが支配者(朝廷)にとって、そのような信仰を続ける人々は「まつろわぬ者」でしかなく、それで古事記にタケミナカタを登場させて諏訪の地を「まつろわぬ地」としておとしめたのでしょう。
それででしょうか、今でもミシャグチ神を祀る神社とタケミナカタを祀る諏訪神社の分布は異なっています。

ミシャグチ神の狩猟的性格が千鹿頭(ちかとう)神で、特に関東・東北で祀られていますが、ミシャグチ神と同じに考えていいと思います。
栃木県の日光では鹿を捕まえるとその頭を諏訪に向け、諏訪の神に捧げる儀式があったようで、男体山周辺には千鹿頭神を祀る神社が多いのだとか。

現在ミシャグチ神の本籍地?は、神長守矢史料館の敷地内に「御頭御社宮司社(おんとうみしゃぐじしゃ)」がミシャグチ神の総社として鎮座してます。
また、左側奥の古墳は石室内にも入れまして、埋葬者は物部守屋の次男で神長守矢氏第27代当主武麿ではなかろうかと考えられておりますが、さぁて、それはどうでしょうかねぇ……………

2015/10/23 11:59

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