「諏訪古事記 その6」

主流を「遷都信濃国」から「諏訪古事記」へ移して最初のテーマが
“タケミナカタは実在した人物なのでしょうか?”
でした。

2009年に発表した「弥栄三次元」ではタケミナカタと美保関のミホススミとヱビス神を結びつけた物語にしましたが、元はといえば諏訪とエジプトのアスワンの関係(天地大神祭=2008年)からでした。
そして次作「ヱビス開国」(2010年)へとつながって舞台はイスラエルのエルサレムになり、そのままの流れで「時空間日和」(2011年)の戸隠へと展開したわけです。
さらに戸隠からトルコのタガーマ・ハラン(高天原)やアララト山へ発展(遷都高天原=2013年)し、そこで完了のはずが、またまたトルコの女神が諏訪へと。
なので諏訪やタケミナカタは原点であり、今のところは到達点でもあるわけです。
ところが……………

ところが、古事記に描かれてるタケミナカタが実在かというと、神話に登場するそのままのタケミナカタが実在していた可能性は低いと言わざるを得ません。
諏訪関係の書籍や資料を片っ端から読みましたが、考古学的にタケミナカタが存在していたとは言えず、どうしましょう。
数霊シリーズはフィクションですので都合の悪い資料は無視し、好都合な資料だけを採用してもそれほど問題ありませんが、学術的な見地から答えを導き出すのなら都合の悪い資料であっても無視できません。

端的な答えとして大和岩雄著「信濃古代史考」(大和書房)がもっとも明確なので、本文をそのまま引用させていただきます。
「建御名方命という神名は、諏訪の神を官社として中央での地位を高めるため作られたもので、そのような工作を行ったのは信濃国造の金刺(かなさし)氏である。だから、金刺氏が大祝(おおはふり)になっている下社では、御左口(ミシャグチ)神の祭祀はない」
※上社が前宮・本宮に対し、下社とは春宮・秋宮のこと。現在はこの四社をまとめて諏訪大社と呼びます。

「建御名方神と守矢神の闘争伝承は、守矢神長の土着信仰(御左口神信仰)を科野国造が掌握しようとする争いの反映であり、祭政を握った科野国造金刺氏は、御左口神の”御生躰”の神使(幼童)に対して、建御名方神の”御生躰”の大祝(幼童)を新設した」

これは解説が必要ですね。
金刺氏は諏訪の神をミシャグチからタケミナカタに入れ換えるために、それまで神の遣いをしていた役を新たに設けた大祝に与え、守矢氏の伝承を消そうとしたわけです。

地元諏訪の藤森栄一氏も
「須波(※諏訪のこと)神から南方刀美神(建御名方神)に、古墳末期の八世紀を境にして神格が交代したもようである」のだと。
そして大和岩雄氏は
「信濃国の祭政にかかわる信濃国造(※金刺氏のこと)が、諏訪の古くからのミシャグチ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果、建御名方命という神名が生まれた。この神は古事記のみに記されて、日本書紀にはまったく登場しない」
と記されています。
そして、
「古事記の編者は、同族(※金刺氏のこと)の意向を受けて、大国主命の神統譜に入ってない建御名方命を、強引に大国主命の子として国譲り神話に組み込み、諏訪の神とした。建御名方命が国譲りに反対して諏訪に逃げ、この地にとどまったという話は、諏訪のミシャグチ神を祀る守矢氏が、科野国造の勢力に敗れ、その祭祀権が上社地域に限定さるたことと重なっている」

最後にもうひとつ同じく「信濃古代史考」より。
「室町時代初期に書かれた諏訪大明神絵詞には、明神(建御名方命)と洩矢神(※洩矢とは守矢氏のことで、洩矢神はミシャグチ)とが争い、洩矢神が国譲りしたとあるが、同じ伝承は他の文献にも記されている。守矢氏は神長官として上社大祝(※諏訪氏のこと)に従っているが、守矢氏の祀る神はミシャグチ神である。諏訪の伝承による建御名方命と洩矢神の関係は、出雲の国譲り伝承の建御雷(タケミカズチ)命と建御名方命の関係であり、建御名方命は、出雲では被征服者、諏訪では征服者という二面性をもっている」

ですが、もしタケミナカタを名乗る神からメッセージを受ける人がいても、それはまったく問題ないと思います。
社に祀られたタケミナカタという存在に人々が意識を向け続ければ、そこにタケミナカタが発生するでしょうから、古代にタケミナカタが実在してなくても何ら矛盾はないはずです。
それと、古代史に対しての答えは”今”の答えでして、また新たな資料や説に出会えば違った答えを持つことでしょう。その繰り返しです、古代史の解釈は。

2015/10/27 17:01

2015/10/27 17:01