「諏訪古事記 その7」

昨日「番外編その4」で中ッ原(なかっぱら)遺跡に復元された八本の柱(写真1)を取り上げたところ、今朝の中日新聞一面に琵琶湖の湖底で見つかった八本の柱の写真が出てました。
諏訪の御柱祭も上社(前宮・本宮)と下社(春宮・秋宮)でそれぞれ八本ずつ建てますので、これからは八本の柱が流行るのでしょうか。

2008年2月26日に琵琶湖で「日之本開闢祭り」をおこないました。
数霊でも”日之本開闢”はちょうど「226」になりますし。
それで当時、琵琶湖は女性性で諏訪湖は男性性と考えていましたので、2月26日の年対称日に当たる8月26日に諏訪湖でも「和睦の祭典」をおこなったわけです。
そしたらその日は諏訪大社でも御射山祭の初日でちょうど良かったです。

琵琶湖の柱は19世紀初頭のものらしいですが、諏訪湖には湖底に眠る謎の古代遺跡がありまして、明治41年に発見された曽根遺跡がそれです。
発見当時、湖底から泥をすくって遺物を探してみたところ、出るわ出るわ鋭く尖った黒曜石などの矢じりが大量に見つかりました(写真2)。

今から6~5000年前の縄文中期は、諏訪湖周辺が日本で人口の一番多い地域であったと目されていますが、湖底から出てきた矢じりは縄文中期どころか約1万3000年前の縄文時代草創期に使用されていたものだそうです。

ということは、諏訪湖の水位は時代によってかなり変動していたことになり、縄文の草創期は現在の湖底が地上に出ていたわけで、その後は逆に水位が上がり、古墳時代には現在の2倍以上の湖面があったと考えられています。
(写真3。紺色の部分が古墳時代の諏訪湖の湖面予想。白い破線が現在の諏訪湖)

そのころから和田峠の黒曜石を発掘していたわけですが、どうやら黒曜石製品の制作にあたっては、掘り出すグループ・削って製品にするグループ・行商に旅立つグループなど、作業を分担していたとのことで、だったら行商組は縄文時代の寅さんってことだ。
先日お会いした「氏子の御柱」を歌う美咲さんが見せてくださった黒曜石の矢じりは、自宅の畑で見つけたそうです。
諏訪・茅野・塩尻・松本あたりは畑を掘れば縄文土器がどれだけでも出てきますが、畑で黒曜石の矢じりを拾った話は初めて聞きました。
福井県の勝山市へ行くと裏山から恐竜の化石が出てくるので、それも笑ってしまいますけど。

さてさて、長野県の場合は縄文時代がクニの始まりではありません。
諏訪湖から北上して長野市のさらに先まで進めば、ナウマン象の化石が発掘される野尻湖がありますし、そこから山奥へ分け入った戸隠界隈では2万年前の集落が発見されたとか。
ナウマン象を追っていたのが3万~2万年前のことらしいので、野尻湖からそれほど遠くない戸隠界隈でそれが発見されても不思議ではないです。

ですがナウマン象はともかくとして、御柱のハタラキについてを考えるにあたっては、柱を天に向けて建て始めた起源やそこに含まれる太古からの信仰、当時の人たちの感性や生活習慣、今となっては失われてしまった大自然との交信など、あらゆる方面からひもといていくことが必要なのかもしれません。
そうすることで本来の諏訪信仰であるミシャグチ神やソソウ神の存在も見えてくるでしょうし、前宮に伝わる「御室(みむろ)神事」や「神使御頭御占(おこう・おとう・みうら)神事」の真意も理解できるかもしれません。
前宮には1年に75度の神事が残されていますが、その意味がつかめないのは「御室神事」や「神使御頭御占神事」だけでなく、75頭の鹿の頭を供えた御頭(おんとう)祭にしろ、サナギ鈴と呼ばれる鉄鐸にしろ、判らないことだらけなので、それについては地元の研究家にじっくり話を聞いてみます、床屋の原直正さんとか。

とにかく諏訪には全部あります。
他の地域では消されたり途絶えてしまった文化風習でも、諏訪にはどれも残っていて、石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代………そして中世から現代にいたるまでのすべてが。
ですが、すべてが残っているためにそれがいつの時代の名残なのか、歴史の糸を引っ張ってもあらゆる時代が複雑にからまっているためさっぱり判らなくなるのも確かで、まぁそれが苦労でもあり楽しくもあるわけなんですけども。

2015/11/ 3  9:33

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2015/11/ 5 16:15

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